ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳30


第4章 性的役割分担(7)

 メンバーの態度とライフスタイルに対する摂理的役割の意義は、これらの役割が主として「内的指導」に関する事柄であるという、統一運動の中にある一般的な感覚に照らして理解されなければならない。この言葉には、本質的に個人の良心と責任に関することであり、深い霊的な関心事であるという含意がある。その結果、婚約した女性たちの間には、摂理的役割に対する少なくとも二つの明らかに異なる方向性が存在する。一群の女性たちは、これらの役割は彼女たちにとって単に「内的に」ではなく、相対者との関係において非常に重要であると表明した。もう一つのグループは、その役割の霊的な意味は価値視するものの、それらが自分たちの将来の夫とどのように関わるかに強い影響を及ぼすとは信じていなかった。(注49)どのような方向性をとったとしても、女性たちは全体として、伝統的なキリスト教(特にローマ・カトリック)が男性中心的な救済論を持っているのとは対照的に、統一運動の女性たちが復帰の過程において神学的に公認された役割を持っていることに対して満足感を示した。

 前述のデータは、共同体的性格を持つ他の新宗教においては女性が男性よりも劣るとみなされて下位の社会的役割が割り当てられているのとは対照的に(注50)、統一運動は、文師の存在論に基いた優越主義から、未婚の女性たちのより実存的でダイナミックな理解に至るまで、性的役割分担に対するいくつかの異なるアプローチによって特徴付けられることを強く示唆している。この多様性は、メンバーたちのやや保守的な背景と、運動が結婚と家庭を高く評価していることが合わさって、フェミニズムを一つの可能性として排除している点において、すべての可能な選択肢を包含していない。にもかかわらず、このグループはマスメディアによって投影されたイメージから思う以上に、性的役割分担の柔軟性を示していることを証拠は明らかにしている。

 若い独身男性は一般的に『原理講論』の主体(男性)・対象(女性)の枠組みを文字通りに解釈することに固執する。これは部分的には文師と自分自身を同一視する傾向と、男性のヒエラルキーの結果である。さらに、これらの男性が入教する前に女性と関わることに困難を感じていたということは、彼らが多くのアメリカ人男性と同様に、1970年代に解放された女性たちが出現することによって沈殿した「男性としてのアイデンィティ・クライシス」を経験していたことを示している。したがって、彼らは両性の明確に定義された役割に根拠を与えるために使えるイデオロギーを持った組織の中で安心を感じるのである。

 独身の女性は(ほんとどの既婚のカップルと共に)性的役割分担に対するより実存主義的なアプローチを支持するが、著者を驚かせたこの現象は、以下の五つの考察によって少なくとも部分的に説明が可能である:
1.女性たちは結婚して家庭を持つことを楽しみにしているが、彼女たちは妻と母親の役割を、彼女たちに生来定められている行動ではなく、彼女たち自身の選択の問題であるとみなしている。
2.多くの女性たちが結婚した後も、家の外で指導者として運動に奉仕している。ほとんどの未婚の女性たちは、年長の姉たちの模範に倣うつもりでいる。
3.統一教会の女性たちは一般的に積極的で自信に満ちているので、文師のいう東洋的な女性の振舞いのモデルにはうまく当てはまらない。
4.彼女たちは1960年代の女性のリーダーシップの伝統と、西海岸とりわけ非常に成功したオークランド・センターの女性リーダーの影響力について知っている。(注51)
5.女性たちは、その効果的な開拓およびファンドレイジング活動を通して、運動の伝道および経済の目標に対して多大な貢献をしてきたのであり(注52)、その業績を通して彼女たちは力と自尊心の感覚を発達させてきた。

 これら五つの考察に照らせば、統一運動における女性の経験は、明らかに男性のそれとは異なっていることは確かである。したがって、性的役割分担に対する彼らの理解もまた異なるであろうことは理解できる。この運動が、神の命令によって公認された仮想の親族関係にもかかわらず、性的役割分担に関する葛藤を取り除いていないという事実は、そこに所属する男性と女性があるべき適切な役割と必ずしも一致しないことを、さらに確証するものである。

 男性中心のヒエラルキーが、男性と女性の実際の役割を、文師の説教に示されている理想的な役割とより一致するように仕向けるだろうと期待する者もいるかもしれない。しかしながら、これは起こらなかった。実際には、少なくとも一例においては、反対の傾向がはっきりと表れている。女性たちが神学校や大学院に入ることを許可することにより、運動は実際に彼女たちの何名かに対して、文によれば男性の特権であるはずの指導者の役割を果たすべく準備をしているのである。女性に高等教育を授けるだけでなく、女性に非伝統的な役割を与えることに対して運動が寛容であることを説明する主要な手掛かりは、アメリカにおいては運動内に女性が不足しているという事実にある。1981年2月26日の時点で、核心的なメンバーの数は10005名であるが、そのうち6408名(64%)が男性であり、3597名(36%)だけが女性であった。(注53)女性メンバーに対して男性メンバーの比率が高いことは、グループにとって二つの非常に実際的な問題を提起する。第一に、多くの開拓やファンドレイジング事業を継続するのに十分な数の女性が、明らかにいないということだ。男性のメンバーがこうした活動にたずさわるのであるが、上述のように、女性の方が男性よりもはるかに実績をあげているのである。文師が既婚の女性をCARPセンターの開拓のために招集したのも、おそらくそのような使命に対応することのできる未婚の女性が実際に不足していたことを示しているのであろう。

(注49)約婚中の女性の母親としての役割については、第5章でより詳しく論じる予定である。
(注50)J・スティルソン・ジュダ『ハレ・クリシュナとカウンターカルチャー』(ニューヨーク:ジョン・ウィレー・アンド・サンズ、1974年)、pp. 86-87およびリチャードソン、スチュアート、シモンズ『組織化された奇跡』pp. 136-146を参照のこと。
(注51)西海岸「派」と影響力のあった「オークランド・ファミリー」の記事に関しては、ブロムリーとシュウプ『アメリカのムーニー』、pp.75-77; 103-105; 138-142; 146-147; 174-178を参照のこと。
(注52)ある特定の社会における女性の地位は、生存の手段を獲得することに彼女たちがどの程度たずさわっているかと密接に関わっていると議論する著者もいる。マリア・オッサワスカ『道徳的思想の社会的決定要因』(フィラデルフィア:ペンシルバニア大学出版、1970年)、p.51。
(注53)個人的交流:ショウ氏

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