書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』140


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第140回目である。区切りのよい140回目で、櫻井義秀氏が執筆を担当した第Ⅰ部と第Ⅱ部に対する検証が終わることになり、次回からは中西尋子氏が執筆を担当した第Ⅲ部に入ることになる。2016年3月16日に始まったシリーズだが、毎週アップし続けて140回に至るのに2年8ヶ月を要したことになり、ある意味で感慨深い。統一教会の現役信者でこの本をこれほど愛して読み込んだ者は他にいないであろう。今回でこのシーリーズが終わるわけではないが、一つの区切りを迎えたことは確かである。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 今回は「六 統一教会の教化方法の特徴」の分析の5回目であり、「3 信仰生活・宗教行為と記憶」において櫻井氏が述べている内容を検証することにする。櫻井氏はこれまで30名近くの統一教会の元信者に対する聞き取り調査をしたとのことだが、その中で一つの発見があったという。それは、「入信までと脱会までの心理的葛藤や経験はよく記憶されているのだが、献身者となって全ての時間を教会に捧げていたような元信者は、日常的な教会生活をあまり明確に記憶していないということ」(p.398)だそうだ。その理由としては、統一教会信者の生活は画一的に管理されているため、「およそ自分で考え、判断する余地もなければ、必要もない」ため、「ルーティーン化された日常生活と宗教生活に関わるところの記憶は曖昧である」(p.398)からであるとされる。

 まずはこの記述が元信者AからIまでの記述と比較して、正しいのかどうかを評価してみたい。つまり、本当に統一教会の信仰生活に対する記憶が曖昧なのかということだが、細かく検証してみると櫻井氏の一般化は当てはまらないことが分かってくる。

 元信者Aは、3年間のマイクロ生活というそれこそルーティーン化された生活を送っていたわけだが、この頃のことを「毎日が辛い日々で泣かない日はなかった」と鮮明に記憶している。そうした限界状況の中でAは神の声を聞くという宗教体験をしたのであるが、統一教会を脱会した後のインタビューにおいてさえ、それを「神体験」としてはっきりと覚えている。元信者Bも、「伝道でも経済活動でも常に葛藤を抱えながらの歩みでどうしようもなく辛かった。マイクロでは実績を上げないと負債になった。」というネガティブな記憶として鮮明に覚えている。

 一方、元信者Cの場合には原理研究会における信仰生活を、青春ドラマのような熱く楽しい思い出として記憶している。「あの頃が一番勉強したと思うくらい。大学の講義以上に難しい。勉強しているというよりも、楽しかった。もっと聞きたい。もうほとんど麻薬に近い状態。」「貧乏で、本当に貧しくて、いつも腹減っていたけれども、楽しくて楽しくてしょうがないって感じ」「学生の一人暮らしをやっていて友達とも話すが、上滑りの会話が多いわけで、濃密な人間関係の中で自分のこと、家族のこと、将来の夢とか、しっかり話し込めるとどんどん入っていった。」「原理研究会の熱さは自分に合っていた。」といった具合である。同じく原理研究会の学生であった元信者Dは、単に自身の入信から脱会までの経緯を事実に基づいて話すだけでなく、原理研究会の勧誘テクニックや、原理研究会と地区教会の違い、学生新聞会の舞台裏、自分自身が原理や組織に対して感じていた矛盾や疑問など、持ち前の分析力を働かせて、主観的な世界についても雄弁に語っている。彼も当時考えていたことや、疑問に思っていたことを鮮明に記憶している。

 地区教会所属の学生信者E(女性)の場合には、信仰生活の途中で健康を害したためにネガティブな記憶が多いが、その一方で神体験らしきものもしている。これはかなり自覚的な体験だったようで、脱会後にも彼女はそれを明確に覚えていた。

 韓国に嫁いだ元信者FとGの記憶は、韓国人の夫の親族や韓国統一教会との間に感じたカルチャーショックに関するものがほとんどである。日本における信仰生活の記憶が曖昧では韓国との比較はできないから、彼女たちもはっきり覚えていたことになる。

 壮婦である元信者Hの記憶は、もっぱら夫との葛藤の記憶である。たとえ教会における信仰生活のあり方がパターン化されたものであったとしても、「殉教精神」に近い彼女の信仰の記憶は鮮明なものとして描かれており、明確に記憶していないとは言い難い。もう一人の壮婦Iの場合には、信仰生活の日記がこまめにつけられていたために、いつどこで何をしたというような記憶は、その日記を見れば記憶が蘇るようになっている。

 AからIまでのインタビューとは別だが、櫻井氏は霊能師役をやっていた元信者にインタビューしたことがあるらしく、彼女について「統一教会脱会後十数年を経過しても、霊能師役をやっていた元信者達は、基本的なトーク例を立て板に水のごとく語ってくれた。」(p.286)という観察を披歴している。すごい記憶力である。

 これらを概観して言えることは、それぞれ自分の感情に深く関わるような重大な事柄は、たとえ教会生活がルーティーン化していた時期であったとしても、よく覚えているということである。そもそも人の記憶とはそのようなものだ。自分にとって重要だと思われることは良く覚えていて、そうでないものは忘れるものなのである。入信と脱会は自分の人生の方向性を大きく変えた出来事であるため、よく覚えているのは当たり前である。しかしそれ以外にも、信仰生活の中で感動したというポジティブな思い出や、辛かったというネガティブな思い出は、記憶に鮮明に残っていることが分かる。

 これは信仰があるなしに関わらず、人の記憶の一般的な性質であろう。櫻井氏自身が「なお、社会調査に係る一般論を付け加えると、中年期から老年期にかけての日常生活に関する出来事を詳細に回想できる人は少ない」(p.399)と認めているように、単にあまり刺激的でないことは人の記憶に残らないということを言っているにすぎない。

 2018年7月20日放送のNHKの人気番組「チコちゃんに叱られる!」では、「大人になるとあっという間に1年が過ぎるのはなぜ?」という疑問が取り上げられていた。それに対するチコちゃんの答えは、「人生にトキメキがなくなったから」というものだった。千葉大学の一川誠教授の解説によると、時間の感じ方には心がどの位動いているかが重要だということだ。言い換えると、「トキメキをどのくらい感じるかで変わる」という。例えば同じ食事をしても、子供は「今日のご飯は何かな?」「どんな味かな?」「作り方は?」「ニンジンが星形に切ってある!」「大好きなポテトサラダだ!」と食事中に発見、疑問、驚きなどの多くのトキメキがあるに対して、大人はただ食事をするという作業になってしまう。子供の場合にはさまざまな感情が生まれているために長く感じるのに対して、大人の場合は食事をしただけなので短く感じるのだという。

 大人になると毎日同じ作業の繰り返しに感じられ、印象に残る出来事は少なく、トキメキが少ない。トキメキやワクワクを忘れてしまった大人たちの1年はあっという間に過ぎていってしまうわけだ。子どもと大人のトキメキの数を比較するためにそれぞれに「昨日は何をしましたか?」「去年何をしましたか?」という質問すると、子供の方はさまざまなトピックが溢れてくるの対して、大人はほとんど思い出せないという。これもトキメキがないことが原因だというのだ。結局、櫻井氏が「気づいたこと」は、統一教会の信仰に固有なことではなく、せいぜい「チコちゃんレベル」の、人の記憶に関する一般的傾向に過ぎなかったというわけだ。「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られる櫻井氏の姿が目に浮かぶようだ。

 櫻井氏は第Ⅱ部の最後に当たる400ページで以下のように書いている。
「本章を終えるにあたって、統一教会元信者の人生を聞き取り、分析した作業に若干の感想を付記しておきたい。学生を含む青年信者が人生の最もいい時期をひたすら統一教会の伝道やマイクロに費やした時間、祝福家庭の信者が一生の一大事である結婚を統一教会でした経験、壮婦の信者が捧げた献金や労力、そして失ってしまった家族との絆。取り返しがつかないものだ。わずか九名の人生を記述することですらこれほど重いのに、七〇〇〇人あまりの女性信者が渡韓して祝福家庭を築き、日本でも数万人の統一教会信者が活動し、多くの人達を巻き込んでいる現実を考えると、言葉も出ない。」(p.400)

 「言葉も出ない」と言いながら櫻井氏はかなり雄弁に自分の主観を吐露しているが、はっきり言わせてもらえば「大きなお世話」である。信仰を棄てた元信者に対するインタビューを重たいと感じたなら、それは元信者の過去の重さに限定して理解すべきであり、それを現役信者に投影すべきではない。彼はすべての統一教会信者は哀れで不幸な存在であり、いまも取り返しのつかない人生の浪費をしていると一方的に決めつけ、「救わなければならない」という上から目線の使命感を勝手に持ち、それができない自分の無力さに絶望している。これは完全に彼の独り相撲であり、「私は幸せだからほっといて!」というのが現役信者の率直な感想であろう。少なくとも私はそうである。

 最後にもう一度繰り返すが、こうした櫻井氏の研究の独善性は、もっぱら情報源を脱会した元信者に頼り、現役の統一教会信者の「リアル」と向き合うことをが意図的に避けてきたことに原因がある。

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