書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』09


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第九回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」
 ここから櫻井氏は統一教会の教説の解説に入るが、初めに彼は「教典宗教と実践宗教」という区別を紹介している。「教典宗教」が教典の中で自己完結した宗教的世界であるのに対して、「実践宗教」とはそれが宣教され土着化していく過程において、具体的な文化・政治的なコンテキストの中で実践される宗教を指すようだ。私もこのブログの「霊感商法とは何だったのか?」のシリーズにおいて土着化論を展開してきたので、一般論として彼の言いたいことは分かる。それでは櫻井氏はこの「実践宗教」の概念を統一教会にどのように適用しようとしているのだろうか?

 それは教典としての『原理講論』の内容と、実際に日本の統一教会員が信じていることの間のギャップを強調するということである。『原理講論』は誰でも買って読むことができるので、統一教会の教えは秘教化されていない。しかし、公開されている教説と信者たちの宗教実践の間には距離ないし落差があるのだという。そしてさらに、日本の統一教会に与えられた特別なミッションと、それを実行する組織構造の故に、日本以外の諸外国にはない日本独特の信仰が日本統一教会には存在するということである。これらは平たく言えば、『原理講論』には「きれいごと」しか書いていないので、それを読んでも統一教会信者のリアルな信仰は理解できず、それを実際に信じている幹部や信者の語る言葉に耳を傾け、その組織構造を分析しなければ本当のところは分からないということである。

 一般論としては確かにそうであり、「教典宗教」と「実践宗教」の間に距離があるということは言えるかもしれない。しかし、それもあくまで程度問題であって、その二つが大きく乖離しているような場合には、それを信じる信徒たちは矛盾に苦しむようになるので信仰生活を継続するのが困難になる。実は、櫻井氏がこの概念を持ち出すのには一つの目的がある。それは第一に、公開されている教説と実際に信者たちが信じていることの間にギャップがあることを示すことにより、統一教会の伝道活動が詐欺的である、不実表示である、あるいは情報を十分に開示した上で伝道を行っていないということを指摘するためだ。第二の理由は、日本独特の「実践宗教」が存在することを示すことにより、統一教会への回心が自発的なものであるという結論を出した海外の先行研究を相対化し、日本におけるそれらの有効性を否定するためである。要するに、それはイギリスやアメリカの統一教会に関して言えることであって、日本では全然違うのだと言いたいのである。

 統一教会の修練会でゲストが聞かされる内容と、実際の統一教会の信仰生活の間にはギャップがあるのではないかという疑義は、実は西洋でもたびたび指摘されてきた。この問題に関して、『ムーニーの成り立ち』の著者であるアイリーン・バーカー博士は実際に修練会に参加して参与観察した結果として、以下のように結論している。

「ムーニーたちがゲストに与える事実情報は、圧倒的多数のメンバー自身が真実であると信じていることを通常はかなり正確に伝えているということは、恐らく本当であろう。ディプログラムされて自分は洗脳されていたのだ、と信じるようになったメンバーたちでさえも、大多数の一般のムーニーたちは正直であると証言するのが普通であり、全体として、修練会は統一教会の神学とメンバーたちが達成しようとしている目標を(選択的でいくぶんバラ色に描かれているとはいえ)正確に伝えていることを認めるであろう。」(第7章「環境支配、欺瞞、『愛の爆撃』」より)

 これはバーカー博士が、ムーニーたちの現実の信仰実践をまったく知らずに言っているのではない。彼女が『ムーニーの成り立ち』の序論において、「なぜ、いかにして、誰かがムーニーになり得るのか? 人が一日に16時間、18時間あるいは20時間も街頭で小冊子や花、キャンディを売るために、自分の家族、友人、そして経歴まで犠牲にするという事実を、何をもって説明することができるだろうか。立派な教育を受けた成人がいかにして、誰と結婚するか、自分の配偶者と一緒に生活できるかどうか、自分たちの子供を育てることができるかどうかを決定する権利を放棄するよう説得され得るのだろうか?」と語っているように、ムーニーの信仰実践が一般社会から奇妙に見えるものであることを彼女は十分に知っていた。しかし彼女は、そうした「実践宗教」と「教典宗教」の間に連続性と一貫性を見いだすことができたのである。

 櫻井氏は『原理講論』に代表される統一教会の「教典宗教」の部分をできる限り過小評価し、それが統一教会の現実を理解する上で役に立たないことを強調しようとしているが、バーカー博士はそれと正反対の分析をしており、以下に引用するように、「統一神学」は統一教会員の信仰実践を理解する上で非常に重要であると述べている。

「その神学は、今世紀後半に興ったいかなる新宗教運動と比較しても、最も包括的なものであることはほぼ間違いない。『原理講論』は、独自の宇宙論、神義論、終末論、救済論、キリスト論、そして独自の歴史解釈をもっている。その神学は、私が信じるに、統一教会の最も重要な資源の一つである。すべてのムーニーが教義全体を受け入れているわけではない。何人かのムーニーは、その神学を十分に理解しているが、その他は基本的教義の表面的理解しかしていない。しかし、すべてのムーニーが『原理講論』を『実践している』という認識をもっている。もし人がムーニーを理解しようとするのであれば、少なくとも、彼らの数字に対する最小限の神学的志向くらいは、神学に対する理解が必要である。」

「本書において我々が関心をもっている点は、統一神学が、新会員を入会させることにおいて二つの重要な役割(一つは直接的に、もう一つは間接的に)を演じているということである。第一に、どのような形式を取るにせよ、修練会の中心的焦点はその神学である。活動の大部分は『原理講論』についての講義か、それについての議論を中心に組まれている。第二に、メンバーたちは、彼らが「原理」に従って生活しているがゆえに、自らがそういう類の人々になりつつあるものと自己表現する。ムーニーがそのゲストたちに言うには、この新しい啓示を知ることによって、彼らを『異なった』存在にするための希望と幸福と目的が与えられるのである。ゲストが『原理』を理解することができたときのみ、彼もまたこの幸せで愛のある共同体の一部になることができるだろう」(第3章「統一教会の信条」より)

 櫻井氏とバーカー博士のこの違いは、どこから出てくるのだろうか? それはやはり、実際に信じている生の信者に触れているかいないかの違いであろう。信仰を魚に例えれば、バーカー博士が新鮮な刺身を食べているのに対して、櫻井氏は数日経って腐った刺身か、干からびた魚の残骸を食べているということになるだろう。

 櫻井氏が「教典宗教」と「実践宗教」の距離や落差を強調したいのであれば、『原理講論』の内容を勉強した後に、それが実際の現役信者たちの間でどのように信じられているかを参与観察やインタビューによって調査してから結論を出すのが筋である。しかし、実際に彼がやったことは、教会を脱会した元信者の証言に基づいて統一教会の「実践宗教」を構築したに過ぎない。結果的に信仰を棄てた者たちの集団であるということは、信仰の理想と現実の間にギャップを感じていた者ばかりが集まっている可能性が高く、信仰の理想を実現しようと努力している現役信者へのインタビューとは大きな違いが出ることが当然予想される。現役信者にとって教典の教えは重要なものであり、自分たちはそれを実践しているのだと信じなければ信仰の力は出てこない。したがって、元信者たちの証言から構築された「実践宗教」の中身は、現役の信者たちに対する調査に基いた「実践宗教」とは相当に異なる、かなりバイアスのかかったものにならざるを得ない。くり返しになるが、これが櫻井氏の研究が背負っている宿命的な限界なのである。

 続いて櫻井氏は、「『原理講論』と文鮮明」と題して、統一教会における『原理講論』の位置づけを試みる。彼は「『原理講論』は文鮮明の初期の説教内容を体系立てたものにすぎず、文鮮明自身の教説の生成・展開に合わせて教えは変化していくために『原理講論』だけから統一教会の教義を明らかにことには限界がある」(p.28)としている。さらに、「文鮮明が健在なうちは、教祖の御言が教義そのものである。」「弟子がまとめた教説よりも、生ける神である文鮮明の直接語った言葉こそ教えの神髄として傾聴される」(p.28-29)とも言っている。しかし同時に、「日本の統一教会信者が長らく教典として熟読玩味し、自らの信仰を築き上げてきた基が『原理講論』であることに変わりはなく、『原理講論』の中身を検討することは、初期の信者、すなわち日本の教団幹部達がどのような世界観を吸収し、信仰のエッセンスとしたのかを知るために必要な作業である」(p.29)とも言っている。

 この当たりの『原理講論』の重要性の認識や、それが持つ限界性および文鮮明師自身の直接の御言との関係の分析に関しては、ほぼ正確に実態を理解していると言ってよいだろう。しかし、その後の『原理講論』に説かれた教説の段階に入ると、その理解は極めて稚拙である。これは彼の専門が宗教社会学であるために神学的センスがないためであるか、もしくは教義神学の面においてさえ統一教会に対する肯定的な評価を自らに禁じていることから起こる、不自然で一貫性のない批判精神が働いているためであると推察される。その詳細は、次回に扱う。

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