書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』118


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第118回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入り、これまでCとDという原理研究会所属の男性信者の例を扱ってきたが、今回は地区教会所属の学生信者E(女性)の事例を扱う。櫻井氏が統一教会の学生信者を「原理研究会の学生」と「地区教会の学生信者」に分け、両者の待遇や性格の違いを強調していることはこれまで繰り返し述べてきた。それは原理研究会が統一運動の中にあっては特別に守られた世界であり、心許せる仲間たちとの楽しい共同生活であり、体育会系のノリで青春ドラマのように熱く、資金調達のノルマやプレッシャーのない信仰生活であるのに対して、地区の学生信者は一般の青年信者や壮婦たちと同じく、常に実績の追求を受けながら、勝利か敗北かという二者択一を突きつけられ、決死的な決意で教団から要求される活動を行い続ける信仰生活である、という主張であった。櫻井氏によるこのコントラストはいささか極端で、ステレオタイプ化されたものであることを私は主張してきたが、原理研究会の男性信者2名と、地区教会の女性信者1名のインタビューを比較しただけで櫻井氏がこのような結論を出しているとすれば、それは社会学者としては驚くべき杜撰さである。

 そもそも、なぜ原理研究会の事例はどちらも男性で、地区教会の事例は女性が一人だけなのか? 男性と女性では物事のとらえ方や信仰を持つに至る動機に差異があることは当然予想されるはずであり、同じ地区教会の学生でも複数の事例を分析すれば違った個性が現れることが予想される。より客観的に両者を比較したいのであれば、原理研究会の男性信者と女性信者、地区教会の男性信者と女性信者をそれぞれ複数名調査したうえで、比較検討してから結論を出すべきであろう。櫻井氏のインタビューした事例が、たまたま原理研究会の体験を楽しいと感じた男子学生(C)や合理的で懐疑的な性格の男子学生(D)の事例と、非常に真面目で献身的な地区教会の女子学生(E)であったという可能性は高い。たったこれだけの事例から組織全体の違いを一般化して述べことはできない。Cの体験もDの体験もEの体験も、それぞれの個性が強く表れたものであり、必ずしも原理研究会や地区教会の学生部の持つ一般的な性格を反映しているとは言えないのである。

 櫻井氏が掲載している元信者のインタビューをAからIまで並べてみると、CとDだけが男性であり、残りはすべて女性である。そしてCとDだけが原理研究会の学生であり、残りは地区教会に所属していた青年、学生、そして壮婦である。櫻井氏はCとDの持つ際立った特徴が、原理研究会の特徴ではなく、男性信者の特徴であるという仮説を立てて検証してみるということをどうしてしなかったのであろうか? この一つだけを取ってみても、櫻井氏の分析手法に重大な欠陥があることは明らかである。もし紹介されたインタビュー対象者の中に地区教会の男性信者や原理研究会の女子学生だった者がいなかったので比較対照が出来なかったというのであれば、その旨を正直に記載し、未検証の課題として残しておくべきであり、過度な一般化を行うべきではない。それこそが社会学者としての真摯な態度であり、研究の信頼性を上げるものであると心得るべきだろう。それをきちんとしないで、少ない事例から乱暴な一般化をしてしまうから、彼の研究の信頼度は下がるのである。

 さて、元信者Eの入信の過程だが、手相の占いをきっかけとしており、本書の第6章において入口部分における勧誘手段として「手相・姓名判断」(p.221-227)が説明されているように、ある意味では一般的な経路から伝道されてきたといえるだろう。元信者Aもきっかけは手相だったということであるから、壮婦に限らず、青年においても占いが最初のきっかけで伝道される人は少なからずいるということだ。

 櫻井氏は、調査対象となった信者たちの「伝道から入信までの期間」を分析し、「勧誘されてから統一教会の信者となることを決意するまでの期間は人様々だが、四ヶ月間が突出して多い」(p.211)としている。それがEの場合には1年以上かかっており、比較的ゆっくりと時間をかけて伝道された方であるといえる。それからさらに1年以上たってから「献身」を決意するわけだが、それでも大学を卒業するまでにはまだ1年半あった。ここで留意すべきは、たとえ内的に「献身」を決意したとしても、彼女は大学を辞めることを勧められたわけではなく、卒業するまでは原理研究会と同じく「信仰的モラトリアム」の期間を与えられていたということだ。その意味では、原理研究会と地区教会の学生部の扱いに大きな違いがあるわけではないことが分かる。

 彼女は人から頼まれると嫌とは言えないタイプだったのであろう、アベルから勧められるままに奨学金や親から預かった学費を献金したり、友達や先輩から借金をしたり、カード会社から借り入れをしたりと、無理を重ねることとなり、それが大きな負担となった。マイクロで腰や足を痛めたことも重なって、健康上の理由からもネガティブな感情が蓄積していく、負のスパイラルに陥っていった。電車の中で涙が止まらなくなり、少しうつ状態になってしまっていたという記述からも推察できるように、あまり精神的に健全な信仰生活ではなかったようだ。

 その一方でEは神体験らしきものもしている。「2005年5月下旬に済州島の修練会に参加した。そこで、講義を受けている最中に『祝福を今すぐ受けなければならない!』という声が聞こえ、周藤副会長夫人(当時)に相談すると、それは先祖の声だと言われた。最終日、朝5時から修練所の前にある海岸で祈禱をするうちに、突然神様と会話をしているような感覚になった。それ以来、祝福のことが脳裏から離れなくなった。」(p.357)と記載されているように、これはかなり自覚的な体験だったようで、脱会後にも彼女はそれを単なる思い込みや精神の異常であったとは思っていないようである。信仰というものは、単なる恐怖心や指導者の指示に従うことだけで成り立つものではない。辛い経験があったとしても、それを乗り越えてなお信じるという動機付けがどこかにないと、続けることはできないのである。彼女の場合には、原理や霊界、自分自身の罪に対する確信と共に、こうした神との直接的な出会いが信仰を支えていたのであろう。

 櫻井氏は、「Eの入信契機は人生の移行期(高校卒業から大学へ進学、北海道から東京へ移動)に転換期トークが絶妙のタイミングではまったという偶然によるものだ。Eに統一教会で解決すべき問題は全くないといってよい。」(p.359)という極めて乱暴な議論を転換している。こうした偶然で人が統一教会に入信するのであれば、同じようなタイミングで転換期トークを受けた多くの者が統一教会に入信するはずである。しかし実際には、同じように声をかけられても反応する者としない者がおり、入信する者となればその確率は極めて低い。人生の転換期に統一教会に出会って入信するという「環境的要因」の存在を認めつつも、それだけでは入信の説明にはならず、同じような環境下におかれても人それぞれ異なる反応をする理由について、アイリーン・バーカー博士はさらに深い考察を行った。すなわち、声をかけられた人の側に、統一教会の提供する内容に対して反応する素養がなければ伝道されないし、反応する何かを潜在的に持っている者が伝道されるということだ。Eは原理の内容そのものに反応しており、教会員となるべきた素養があったので伝道されたのである。

 Eはトレーニングの期間中に交際していた男性との関係を絶っている。このことについて櫻井氏は、「女性の青年信者に共通する介入だが、交際中の相手と絶縁させるというやり方である」(p.359)という奇妙な論理を展開している。未婚の青年が信仰を持つことによって恋人と別れることはあるが、そこに男女の差はない。女性は男性の恋人と別れることを勧められるが、男性は女性の恋人と交際を継続することが許されるなどということはなく、どちらも等しく祝福を受ける準備としてそれまでの異性関係を清算することを勧められるのである。

 以前にも櫻井氏は「心情解放展」と呼ばれる行事の中で、青年信者が交際中の恋人と別れさせられることがあると主張し、「この辛い決断をしてしまうと最も親密な人間関係が失われるために、これまでの自分ではなくなってしまう。」(p.248)といういささかオーバーな表現をしてこれを批判している。これに対して私は、信仰を持つことによって異性のとの関係に問題を来すようになるという事例は一般のキリスト教にもあり、その際になされる信仰指導は、異性との交際を優先して信仰をやめるべきだとは決して言わず、基本的には信仰を優先して判断し、できるだけ妥協しないように勧めていることを紹介した。こうした異性の問題に関するキリスト教の信仰指導は、統一教会でEに対してなされた指導と本質的に異なるものではない。このように男女の愛よりも信仰を優先させ、交際中の異性と別れるように説得を行うこと自体は、宗教の世界においては一般的なことなのである。特に統一教会においては罪の本質を「愛と性の問題」としてとらえており、祝福による結婚が救いにとって必要不可欠なものであると教えているため、異性の問題は信仰の本質として避けて通ることができないのである。恋人と別れることは、青年信者にとって一時的には辛い体験であるかも知れない。にもかかわらず、彼らが信仰を優先して異性関係を断ち切るのは、祝福によってより大きな幸福が得られるに違いないという「希望」があるからなのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク