ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳52


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(8)

 これらのすべては、結婚における性はそれ自体で善であるという主張を幾分かは支持するが、そのような証拠は、避妊に関する運動の一貫した準公式的見解となっていることに照らして考察されなければならない。初めに、文師が彼の「公的な」(すなわち、メンバーが読むために文字に起こしたもの)説教の中で何を語っているかと見ることによって、この見解について調べてみよう。1977年のやや個人的な発言の中に、以下のようなものがある。
「男性と女性は愛を完成させるために結婚するのです。どの時点で母親の生命と私の生命は一つになるのでしょうか? 一緒に良いものを食べたときでしょうか? お金をやり取りしたときでしょうか? 私たちが愛において愛において一つになったときでしょう? [#傍線]私たち二人の間に愛が統一と調和をもたらしたときに生命が始まるのであり、生命が出現するときに私たちの理想が開花するのです。[#傍線終わり]」(注54)

 「生命が出現するときに私たちの理想が開花する」という言葉の意味は隠喩的に理解することが出来るであろう。例えば、文はオーガズムを伴う性交がカップルの結婚に活気を与える効果について語っているのかもしれないが、ここでの「生命」はより文字通りに受胎を意図していると見た方がよさそうである。1965年に避妊について尋ねられたとき、師は「神様は世界の人口過剰を心配しておられないので、私たちも心配する必要はありません。私の観察では、アメリカは全世界の30億人類を養うことができます。」(注55)と答えている。この回答は間接的であるが、メッセージは明確に描かれている。加えて、メンバーたちは師による同様の発言について報告した。
「文師は、教会のメンバーがいかなる手段の避妊も用いることがないよう明確に断言しています。・・・教会の家庭は大家族で、楽しく、神を中心としています。新しい生命の創造を妨げるのは間違っています。結婚における性の最も重要な目的は繁殖です。文師は1980年2月の祝福カップルへのスピーチでこのことを明確にしましたが、このスピーチは文字に起こされることはないでしょう。」(注56)
「文師は、統一教会には避妊はないと言いました。」(注57)

 このように、文師が避妊に断固として反対しているのは比較的明らかなのだが、彼の見解に対する理由は、繁殖を目的としない夫婦の性交が罪だということではなさそうだ。むしろ、彼はカップルたちに対して多くの家族を持つよう奨励したいようである。この立場は、「エデンの園においては、神様の主義は『家族主義』です。古くて壮大な大家族主義なのです。」(注58)という彼の見解と一致している。文の見解をこのように説明することは、師の避妊反対を肯定的に解釈する多くのメンバーたちによって支持されている。典型的な例が以下のものである:
「私が感じるのは、基本的に彼の態度は避妊を用いることが罪だということではなく、私たちが多くの家族を持つように奨励する態度だということです。・・・私たちが多くのことを犠牲にしているときでさえ、私たちは子供を持つことを犠牲にはしません。それは非常に肯定的なことなのです。」(注59)

 もしこれが本当に婚姻における性に関する文師の見解であるならば、なぜ統一運動の中に祝福家庭は受胎が可能な期間にだけ性交を行うという根強い噂があるのであろうか?(注60)この問題を理解するために、活発な議論がリチャード・ケベドーによって引き起こされた1979年に開催された統一運動のライフスタイルに関する会議で、それがどのように扱われたかを見てみよう。ケベドー氏は、有料で運動のコンサルタントをしている非メンバーである。
「私はある高位の人物に避妊について尋ねたが、彼はこう言った。『私たちはローマ教皇とまったく同じことを信じている。私たちのポリシーは、人工的な避妊の方法は許容されないということだ。』別の者は『セックスは繁殖のためにだけある』と言った。また、(結婚後の)別居期間に関しては、女性が夫と会うことが許されるのは彼女が妊娠可能な期間だけであるという印象を私は受けた。私は、結婚の外であれ中であれ、性の喜びが善であるとみなされているとは思わない。」(注61)

 ケベドーはさらに、彼のこの主張に関して、韓国と日本のリーダーシップの影響によるものであるとした。
「私は、白人の指導者たちは白人のアメリカ人の問題を理解していると思う。しかし、現時点においては白人の指導者たちは東洋の指導者たちに従っているようにみえる。そしてさらに、白人の指導者たちはこれらの問題に関して東洋の指導者たちとコミュニケーションを取るのが難しいと感じているようだ」(注62)

 ケベドーの主張に対するメンバーの反応は予想通り慎重なものだったが、これは運動に分裂をもたらすような公的発言を避けようとするメンバーの一般的な傾向を反映している。霊的なものが肉的なものを主管しなければならないと文師が教えていることと、「一部のリーダー」(興味深いことに、この回答者は「一部の東洋のリーダー」とは言わなかった)はケベドーが報告したようなことを言ったかもしれないと認めながらも、彼らは喜びと個人の充足感のためのセックスが罪であるとはみなされていないと主張した。
「私は文師が、夫婦間においては、とりわけ復帰のプロセスを通過して一定基準の成熟に至ったときには、相手に対して本当に責任を持つことができ、愛することができるようになるので、そのときにはいかなる制限もないと言ったことを知っています。あなたと相対者は一体であり、相手が自分の一部ではないと感じる必要はないのです。」(注63)

(注54)文鮮明「最も偉大なものは愛」p. 5.(下線は筆者)
(注55)文鮮明「復帰と審判について」、『マスター・スピークス』(MS-4, 1965)p. 10。
(注56)インタビュー:フレイム氏
(注57)インタビュー: ボルトン氏
(注58)文鮮明「地上天国と理想家庭」『マスター・スピークス』 (番号77-01-01, 1977年1月1日) p. 11。
(注59)インタビュー:ショー夫妻
(注60)この「噂」はいくつかのインタビューで出てきたが、インタビューを受けたアメリカの祝福家庭は、これはあるカップルにとっては本当かもしれないが、それは公式的な統一運動のポリシーの結果ではないと主張した。
(注61)ケベドー「ライフスタイル」p. 42。
(注62)前掲書、p. 44。
(注63)前掲書、p. 47。

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