書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』131


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第131回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の2回目である。Iは統一教会を相手取って計5億4700万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、このうち2億7600万円の支払いを命じる判決が東京高裁で下されたことは、既に先回説明した。(判決は最高裁でも維持され確定している)今回は、なぜ裁判所がこのような判断をしたのかについて詳しく説明することにする。

 裁判所が統一教会に対して損害賠償を命じたということは、統一教会の信者がIに対して行った勧誘行為に違法性があったことを認定したということだ。ここで問題となるのは、どの部分に違法性があると認定したのかということだ。そもそも、「宗教団体が信者から献金を募るのは違法か?」と言えば、その答えは明白である。宗教団体は信者からの献金によって成り立っているので、これを否定したら宗教団体は存在することができない。伝統宗教でも献金は義務であり美徳であると教えられている。例えば、神道の賽銭は「祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭」という意味があり、「賽」とは神から受けた福に感謝して祭るという意味がある。仏教の「布施」の中には「財施」という概念があり、これは金銭や衣服食料などの財を施すことを言う。キリスト教の献金は、収入の十分の一を捧げることが伝統になっているし、イスラム教においても喜捨(ザカート)が重要な信仰実践として位置づけられている。すなわち、献金そのものに違法性はないのである。

 次に、「宗教団体が、神、霊界、サタン、罪、地獄、蕩減、因縁などの教えを説くのは違法か?」という問題がある。この答えも明白である。憲法第20条で「信教の自由」が保障されているので、こうした言説を説くこと自体に違法性は全くない。また、これらの宗教的概念の正しさを証明する義務も、宗教団体にはない。さらに、政教分離原則により、宗教的信念の真偽や是非を国家が判断することは禁止されているので、こうした言説が間違っていると裁判所が判断することもできないのである。現実問題として、もしこうした教えを説くことが違法なら、ほとんどの宗教は存在できないであろう。ただし、統一教会では神、霊界、サタン、罪、地獄、蕩減などの概念は教えているが、原理講論には「先祖の因縁」という言葉は存在しない。

 さて、上記の二つを組み合わせたものが、「宗教団体の信者が罪や霊界について語って献金を勧める行為は違法か?」という問いになる。これも原則としては信教の自由が保障する範囲内であり、一般的には合法と言えるが、実際の裁判においては、献金を勧めるときのやり方や捧げた金額などの「社会的相当性」が問われ、民法上の不法行為と判断されることもある。統一教会が民事訴訟において損害賠償を命じられるケースというのは、こうしたケースがほとんどである。

 こうした事態を受けて、2009年3月25日の徳野会長による教会員に対するコンプライアンスの指導の中で、以下のような注意がなされるようになった。
①献金と先祖の因縁等を殊更に結びつけた献金奨励・勧誘行為をしない。
②霊能力に長けていると言われる人物をして、その霊能力を用いた献金の奨励・勧誘行為をさせない。
③信者への献金の奨励・勧誘行為はあくまでも信者本人の信仰に基づく自主性及び自由意思を尊重し、信者の経済状態に比して過度な献金とならないよう、十分配慮する。
④献金は、統一原理を学んだ者から、献金先が統一教会であることを明示して受け取る。

 要するに、献金を勧誘する際には、その目的をきちんと開示し、「威迫・困惑」や「不実告知」とされるような行為を行ってはならないという通達である。

 しかし、「献金の額に限度や『社会的相当性』はあるか?」という問いかけは、一般論としてはかなり難しい問題をはらんでいる。その一例が、「イオン布施目安提示事件」だ。2010年5月に大手流通のイオンが、自社カード会員向けの葬儀紹介サービスにおいて「布施の価格目安」を打ち出した。これに対し、8宗派、約600の日本国内の寺院の協力が得られた一方で、全日本仏教会などの一部の仏教団体は「布施に定価はない」「企業による宗教行為への介入だ」と反発したのである。この施策に対しては、「消費者の立場からすれば明瞭な布施価格の明示はありがたい」との評価と、「今後これが『定価』として一人歩きしてしまう」と懸念する意見があった。その後、2010年9月10日にイオンは「布施の考え方にはさまざまなものがある」として、この布施の価格目安をサイトから削除した。布施や献金の「妥当な金額」を決めるのはやはり難しいようだ。

 こうした問題を考える上では、「宗教的価値観」と「世俗的価値観」という二つの異なる価値観が対決することになる。それは以下のような対立構造を持っている。

宗教的価値観 世俗的価値観
神や霊界は存在する 神や霊界は幻想
人間には罪がある 犯罪者にしか罪はない
献金は善である 献金は宗教団体の搾取
多額の献金も当然 多額の献金は暴利
神のために献身的に働くことは美徳である 宗教団体に唯働きさせられるのは人権侵害だ
宗教的価値観や行動を世俗の法では裁けない 宗教的行動といえども、世俗の法に服する

 実際の裁判の場では、統一教会は宗教的価値観に基づき、「御言葉に感動し、神の摂理と世界平和のために全財産に近い献金をしようと短期間で決意することは十分にありえるし、実際にあった。献金の多寡を世俗的な価値基準で判断すべきではない」と主張することになる。一方、反対派は世俗的価値観に基づき、「出会って短期間のうちに全財産に近い献金を捧げるというのは、因縁や地獄の話によって脅されて献金を決意したとしか考えられない。宗教的献金にも『社会的相当性』の範囲がある」と主張することになる。裁判官はどうしても「世俗の価値観」に基づいて判断するので、反対派の主張を認めてしまうという傾向がある。

 それでは元信者Iが献金を捧げたときの様態はどのようなものであり、そこには社会的相当性を逸脱する要素があったのだろうか? 客観的な事実からすれば、Iは出会って短期間のうちに「威迫・困惑」によって全財産に近い献金を捧げたわけではない。最終的にIが統一教会に求めた損害賠償は計5億4700万円であった。これが全財産にあたるかどうかは不明だが、1991年4月にIが初めて統一教会信者に出会って、翌月にIが決意したのは献金ではなく、1000万円の借用であった。そして年内には400万円が返金され、残りの600万円を献金することを決意した。この時点で出会って8ヶ月程度であり、しかも出会って3ヶ月目には統一教会であることを明かされているので、献金を決意した時点で既に事実を知らされて5ヶ月ほど経過していることになる。仮に5億4700万円を全財産とすれば、最初の借用の1000万円は1.8%、600万円は1.1%に過ぎない。Iが資産家であったため、献金の額は一般常識から見れば大きく感じるが、これは「全財産」とは程遠い割合である。また、借用の中から一部を献金し、一部を返金してもらうなど、Iは合理的な思考をしており、平常心を失っていたとは考えられない。

 櫻井氏が提示したIの日記は、2002年7月から2003年6月までの約1年間の出来事を綴ったものだが、その間に5回ほど献金したことが記されている。この時点で信仰を持って11年以上が経過しており、その年月の長さを考慮すれば「短期間のうちに捧げた」とは到底言えないような時期に献金を行っているのである。しかも、日記には献金の記述に合わせて「感謝」という言葉が記されており、「威迫・困惑」によって献金を捧げたわけでもないことは明白である。

 このことは櫻井氏も認めており、「このような分析的知見からIの信仰を捉えると、Iに対して統一教会が献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではないことがわかる。統一教会に関わる過程において強迫・恫喝といった外形的な心理的圧力が常にかけられていたとすれば、Iの精神はストレスで疲弊し、精神的な疾患に追い込まれるか、統一教会を去っていたはずである」(p.393)とまで述べているのである。

 だとすれば、「社会的相当性」の根拠となるような、「威迫・困惑」によって出会って短期間のうちに全財産に近い献金を捧げたという事実は、Iのケースにおいては存在せず、事実としてはみ言葉を信じて感謝して献金していたことになる。にもかかわらず、裁判所がこの献金勧誘に違法性を認め、損害賠償の支払いを統一教会に命じたのは、億を超える金額を社会的評判のよろしくない宗教団体に捧げた信者が、それを取り戻せないという判断を裁判所がしたとなると、世間の批判を免れないという「世俗的・常識的判断」が先にあり、違法性の根拠は後付けの解釈によってこじつけたからにほかならない。これは純粋に法的に見れば不条理な判決だが、これもまた裁判所の現実なのである。判事も人の子であり、判決には「世間体」が影響するのである。

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