櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第130回目である。
「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」
元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は壮婦としては二人目の元信者Iの事例に入る。
櫻井氏は冒頭、「本事例は他の事例と比べてかなり詳細な記述となる」と前置きし、その理由を「対象者であるIが統一教会相手に計五億四七〇〇万円の損害賠償を求めて訴訟を起こした際に、筆者は彼女の弁護団から彼女への違法な働きかけに関する意見書の作成を求められ、四〇〇字詰め原稿用紙換算で二〇〇枚もの意見書を東京高裁に提出した」(p.377)からであると述べている。
私はこれまで、元信者AからHまでの事例に関しては、櫻井氏が裁判資料だけに頼るのではなく、裁判の原告になっていない元信者にインタビューをしたことに対して一定の評価をしてきた。なぜなら、統一教会を相手取った民事訴訟に提出される元信者の陳述書や証言は、事実を歪曲している場合が多いからである。
たとえば「青春を返せ」裁判における原告たちは、自分自身の宗教的回心が真正なものではなく、他者に操られて引き起こされたものであると主張する。彼らは一度は統一教会に入信し、熱心に活動までしたのであるから、何らかの宗教的回心を体験しているはずである。ところが、自らの宗教的回心が真正なものであることを認めてしまうと、主体的な信仰を動機として活動したことになってしまうので、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまう。それでは訴訟が成り立たないので、自分が回心した過程を正直に描写するのではなく、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として描写する必要がある。このように、訴訟を有利に進めるための戦略として、あえて事実を歪曲して主張することが裁判資料にはままあるのである。
ところが、櫻井氏がインタビューしたAからHまでの元信者は、こうした歪曲を行う必要がないので、彼らの証言の中には、人為的な手の加わった裁判資料から作られたイメージには当てはまらない統一教会信者の「リアル」が見え隠れしていたのである。例えば、元信者C(男性)は、原理研究会での信仰生活が楽しくて仕方がなかったことを正直にしゃべっていて、彼の証言にはまるで青春ドラマのような熱さがあった。それは彼にとっては楽しかった青春時代の一コマとして、今も記憶されているのであろう。しかし、元信者Iに関する資料は、既に裁判用に加工されたものであった。櫻井氏は「意見書作成に際して、段ボール二箱分の資料、陳述書、原告側・被告側書面等を参照」(p.377)したと書いているが、経験豊富な弁護士たちによって作成された原告側の裁判資料は、元信者Iの入信から脱会までの過程を、訴訟に有利なストーリーにまとめ上げたものであった可能性が高い。
このように資料自体に偏りがあることに加えて、櫻井氏は客観的な研究者という立場を越えて、原告側弁護士の求めに応じて「彼女への違法な働きかけに関する意見書」(p.377)を作成しているというのであるから、一方当事者の利益を代弁する立場に立っていることは明らかである。要するに、櫻井氏は元信者Iの弁護団とは緊密な協力関係にあると同時に、統一教会とは敵対関係にあるのだ。資料そのものの偏った性質に加えて、彼の信者Iに対するスタンスや関わり方にも、学問的な中立性を離れた「当事者性」があると言ってよい。
櫻井氏によると、「この裁判の結果は、二〇〇八年二月二十二日、最高裁がIの上告を退けて東京高裁の判決が維持された。東京高裁では、統一教会の違法な勧誘及び献金強要行為を請求額の二億七六二〇万円分についてだけ認めた。」(p.377)という。三億円近い損害賠償を裁判所が命じたのであるから、事情をよく知らない人は、統一教会は彼女によほど酷いことをしたに違いないと思うかも知れないが、事実はそうではない。損害賠償の額が大きいのは、それだけ彼女が資産家だったために多額の献金をしたことを表しているにすぎず、勧誘行為の違法性の度合いを示しているのではない。しかしながら、捧げた献金の額が大きいということが、裁判官の判断に影響を与え、利益回復のために違法性を認定する傾向にあるという側面もあることは否定できない。
勧誘行為の違法性とは、端的に言えば、統一教会の信者らがIを騙したり脅したりして勧誘したり、献金させたりしたのかどうかということだ。実はこの点はそれほど明らかではない。もし献金させる側に騙す意思が明らかにあり、それを立証できるのであれば、刑事事件として立件することも可能かもしれないが、事実はそうではないからだ。櫻井氏は宗教的な儀礼を通してIの信仰が強化されたことを説明しているが、それに以下のような解説を加えている。
「このような儀式に登場する先生役の信者やIを始終導いてきた信者にとっても、儀式において霊界を現出する行為は自身の信仰を強化する。『欺しー欺される』関係とは単純に言い切れない『本気』の部分がある」(p.378)
Iを伝道する側は、自分たちが語っている内容や行っている儀式はまさに真実そのものであると信じているわけであるから、そこに騙す意図がないことは明らかである。したがって、Iは統一教会の信者に「騙された」のではなく、彼らと「信仰を共有するようになった」というのが正しいであろう。実は櫻井氏もこのことは認めている。
「ここで信者となれば、統一教会とIとは先祖の因縁を切るという行為において協働関係に入るのであり、入信すれば、まさに信仰共同体の一員となる。(p.380)
Iの信仰が形成された背景には、因縁や霊界に対する恐怖だけではなく、霊の親から尽くされたり、教会のスタッフから愛されたことに対する感謝の念があり、そこで築かれた人間関係があったことは櫻井氏も認めている。
「Iの信仰心を持続させた要因は二つあり、・・・もう一つは、Iをとりまく統一教会信者達による励ましや人間的ふれあいだった。これは確かにIにとって新鮮な出会いであり、人間交際の喜びでもあった。」(p.392)
「Iは霊の親だった若い信者からの手紙を大切に保管していた。統一教会の人間として自分を欺したことには間違いないのだが、自分のことを本気で心配し、気にかけてくれた真情に溢れた手紙を捨てるに忍びなかったのだろう。」(p.380)
「自分を欺した」ということと、「自分のことを本気で心配し、気にかけてくれた」というのは論理的には矛盾するのだが、要するにIの発想はこうである。霊の親に個人として自分を騙すつもりがなかったことは明らかだが、その霊の親もより大きな組織としての統一教会に騙されており、その指示に従って自分を導いたのだから、本人にその自覚がなくても結果的に騙したことと同じだ、という論理である。しかし、組織としての統一教会はIや霊の親のような個々の信者の集合体なのであり、その全員が同じ信仰を共有しているとすれば、組織が騙したという論理も成り立たなくなる。要するに、Iはもはや統一教会の信仰を共有できなくなり、信じられなくなった、心変わりした、ということなのだが、自分が信じてしまったことを後悔する気持ちから、「欺された」と言っているにすぎないのである。
櫻井氏は結論の部分で、「このような分析知的知見からIの信仰を捉えると、Iに対して統一教会が献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではないことがわかる。」(p.393)と述べている。一度、信じる思考の枠組みが出来上がってしまえば、後はそれを維持・教化すれば良いのであって、そうした状態の下では騙したり脅したりしなくても、献金するようになるのだということだ。
そもそも、こうした状態で献金を行った場合には、それは信じて行ったということなのであるから、違法行為として認定して損害賠償を命じるには無理がある。Iは13年間も信仰を持っていたということであるが、その間に行った献金の大部分は、「信じて」行ったのであり、騙されたり脅されたりして行ったものではない。にもかかわらず献金額の約半分の損害賠償を命じた理由は、勧誘の初期の段階で、宗教であることを明確に述べなかったなどの「瑕疵」があり、その結果として得た信仰を動機として捧げた献金であるから、違法行為の延長線上にあると裁判所が判断したためである。これはかなり強引な論理展開なのであるが、なぜこのような判断がなされるのかについては次回詳しく説明することにする。