ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳18


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(2)

 統一運動における性欲に対する理解は、この宗教共同体の性に関する価値観に対するアプローチに非常に重要な洞察を与える。性欲をそれ自体で原罪の結果として見るアウグスティヌス主義とは異なり、インタビューを受けたメンバーは全員がそれを「自然な」ものであり、「神が与えた」人間性の側面であるとみなしていた。以下は典型的な反応である:
「私は性欲は私たちの性質の一部であり、とても重要な部分だと思う。それは私たちの愛の身体的側面だ。だから、私はそれは本当に自然なものだと思う・・・」(注10)

 この性欲に対する肯定的な評価は、共同体の日々の生活の脈絡の中で理解される必要がある。ここでは、全メンバーが最初の(少なくとも)三年間の独身期間を、異性のメンバーと常に関わり合う状況下で経験することを要求されていることを心に留めておくことが肝心である。男性と女性は日常的に一緒に伝道し、ファンド・レイジング(運動内の専門用語)をし、働き、食事をし、礼拝をするのである。性欲を本質的に善であるとみなす人が、そのような環境において「純潔」を守ることがいかにして可能なのであろうか? 独身のメンバーたちは、彼らがいくつかの方法で性欲に対処していることを示唆したが、それらはすべて非フロイト的(非ライヒ的と言った方が良いかもしれない)な性に対する理解をある程度反映している。個人が性欲をコントロールする方法として最も頻繁に言及されたのは以下の三つである:(1)祈祷:「私は常にこれらのことに関して、天の父である神からの評価を確認する。私は自分の生活が神を中心としたものとなることを望んでいるので、それらが起こるときとその後に、私は常にこの経験について内省する。」(注11)(2)自己鍛錬:「私たちは神の祝福の適切な時期が来るまで、性欲を含む自分の欲望を自己管理することを学ばなければならない。その時が来たら楽しむことができる。」(注12)自己抑制の重要な役割モデルが文師であり、彼自身の言葉によれば、彼は大学時代に強烈な性的誘惑に抵抗したという。(注13)他の関心事に集中する:「欲望についてくよくよ思い悩んでも、それを強くするだけだ。私は常に活動的であるように努め、神のための仕事に自己を投入する。」(注14)

 性欲をコントロールするためのこれらの戦術は主として個人の努力であり、それは各人が自らの霊的・道徳的成長に対して責任を持てるようにするという統一運動の関心を反映している。この仕事に対する共同体の役割は以下の三つである:(1)統一教会の信者になるということは、その人の性的生活に関する限り、過去との完全な決別を伴うものである。それ故に、メンバーたちはグループに加入する前の自身の性体験については、話すことはおろか考えることさえもしないように奨励されている。(注15)このことを強調する目的は、メンバーが性的な感情についてくよくよ考えるのを妨げるためである。なぜならそれは、彼らが回心する以前の生活を特徴づけるなんらかの不純な考えや行動パターンを助長するだけだからである。(2)未婚の男女の相互関係を統治している兄弟姉妹の役割は、比較的「純粋な」環境を作り出す傾向にある。信者たちによれば、そこでは性的誘惑が少なく、したがって個人が自らの性的感情をコントロールするのも容易であるという。(3)運動の大部分の人員を収容する地方のセンターでは、共同体の生活は厳密に守られたスケジュールによって統制されており、そこでは性的感情を育むような時間、機会、あるいはエネルギーを持つ余地はほとんどない。(注16)

 性欲と折り合いをつけることは個人の側における相当な努力を伴うが、この葛藤は運動の人間の心およびそれと生物学的動因としての性の関係に対する理解によって、いくらか和らげられている。彼らの心理学によると、それは仏教の思想と共通点があるのだが(注17)、性欲というものは個人がそれと「授受作用」をする度合いに応じて強くなったり弱くなったりするものなのである。肯定的な意味であれ否定的な意味であれ、性的な感情について思い悩めば悩むほど、それはより強くなり、人の生活により大きな影響を与えるようになるのである。おそらくこれが大多数の未婚のメンバーが、彼らは通常は他のメンバーと性的感情について話をしないと示唆したことを説明するであろう。(注18)なぜならそのような授受作用はこうした感情を強め、霊的な問題と実際的な問題の両方を生じさせる可能性があるからである。

(注10)インタビュー:カービー夫妻
(注11)インタビュー:ヒューレイ氏
(注12)インタビュー:ショー夫妻 。このような自己鍛錬は個々人によって異なるが、全員が一般的に考えていたのは、神を中心とする心が強い決意をもって性欲を克服するということであった。このことが含意しているのは、フロイトやライヒのカテゴリーはサタンを中心とする心にのみ当てはまるということである。
(注13)「私は大学時代に、異性を引き付けないように、静かで醜い男を装っていました。私が道を歩くときには、多くの誘惑がその途上にやってくるので、いつも下を向いて歩いていました。若い女性の中には、永遠の愛を願って血書で誓いを示す者もいました。このようなことが起こったのです。私が大学時代にたまに一人でいたときには、女性たちが私のところに入ってくるのです。分かりますか。そのような誘惑さえあったのです。私はそれを拒否しました。自分自身を訓練したのです。・・・たとえ100名の美しい女性たちが、しかも裸で現れたとしても、私は(神様と)一つになっていたので誘惑されず、つかまりませんでした。」 (文鮮明師、第4回ディレクター会議でのタイトルのない夜の講話、「マスター・スピークス」、1973年7月4日、p.6)[訳注:英語の原文は通訳の言葉を書き起こしたものであるため、文師を「彼」と三人称で表現している。しかし、これは文師の直接のスピーチであるため、日本語では第一人称に書き直した]
(注14)インタビュー:ベルマン女史
(注15)比較的大きな統一教会のセンターでメンバーたちにインタビューする許可を得ようと試みる際に、一人の重要なリーダーがインタビューの調査票に異議を唱えた。なぜなら、それはインタビュー予定者に対して、運動に加入する前に「性的に活発」であったかどうかを尋ねる質問を含んでいたためである。この質問はイエスかノーかを答えるだけのものであったが、そのリーダーがあまりに強く反対したため、もしある女性リーダーが強力に支持してくれなければ(この件と他の理由により、私は彼女を尊敬し称賛するようになった)、彼らが「それは想定外だ」と言っていたように、このプロジェクトは決して実現しなかったであろうと思われるほどであった。後に、その男性リーダーが反対した理由の一部は、メンバーによれば非倫理的な手段で行われた調査とされている、ジョン・ロフランドの「終末論を説くカルト」を筆者が称賛したことにあったということを、私は発見した。別の理由は、神は過去に不純な生活を送ってきた者たちに対して厳格な期待を持っておられるが故に、「神様はあなた方に、過去の誤った愛を完全に忘れてしまうほどに自分自身を刷新することを願っておられる」という文師の発言であった。「イエス様の復活と私たち自身」マスター・スピークス、番号77-04-10、p.13を参照のこと。
(注16)ヒューレイ氏とのインタビューの中で、彼は統一神学校に来て以来、自分の性欲をコントロールするのが難しくなったと言った。なぜなら、いまはそれについて考える時間が増え、姉妹たちと形式ばらずに関わる機会が増えたからだという。彼が地方のセンターで「現場にいたとき」には、性欲はそれほど大きな問題ではなかった。
(注17)「ありとあらゆるものごとは、私たちの思いの結果生じる。思いに因よらぬことはなく、思いに成な らぬものもない。」(法句経、相似詩)原文の英訳は、アービング・バビット訳のThe Dhammapada (New York: New Directions, 1965), p. 3.
(注18)性的な感情について話し合うことは、運動のいかなる公式的なやり方でも禁止あるいは抑制されてはいないことは指摘されなければならない。性は私たちの社会のほとんどの人にとって微妙なテーマなので、そのことについて話すメンバーは、彼らがとりわけ近しく感じている人と話すのである。

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