ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳51


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(7)

 第二に、統一運動のカップルは結婚というものを、未婚の状態よりも霊的・人格的成長にとってより難易度の高い状況であるとみなしている。彼らは「ふたりはひとりにまさる」(注45)という伝道者の言葉に同意するであろうが、それは二人が自動的により安楽な生活を見いだすからではなく、一緒に住むためにはパートナーの各自が他者を愛し受け入れることを要求されるからである。統一教会の結婚において本物の親密さを実現するためには、(いかなる人間関係においても同様だが)両性の側における本物の努力が求められる。この研究のためにインタビューをしたより年長のカップルは、満足できる夫婦関係を作り出すには何年にもわたる葛藤と成長を経なければならなかったと示唆した。そして彼らにとってこのプロセスは、頻繁な別居のゆえに、統一運動の外のカップルにとって以上に難しかったと言ったのである。後に見るように、これらの「結婚後の別居」は、理想ではないにしても、現在の統一教会の結婚パターンのまさに一部となっている。それ自体は、夫婦の相互作用を妨げ、成長の場としての結婚の理想を実現しようとするカップルの努力を抑制する傾向にある。

 最後に、結婚は世界救済の基礎的な社会単位として理想化されている。ある婚約中の女性が言うには、「私は自分の家庭が、私の心情が成長し、私の世界観が成長するための手段になればよいと思います。そうすれば、私は地域社会に奉仕するために自分の家庭を用いることができます。」(注46)今年祝福を受ける予定の男性はより具体的だった:
「統一運動と外の世界の最も重要な違いは、自分たち自身の家庭のニーズよりも社会のニーズを優先させることを学ぶということだ。私たちの仕事は、より大きな社会善に貢献すること以上に自分の家庭の安寧のためにお金を稼ぐことではない。私の両親の家庭は、それ自体を中心としている。私の将来の家庭は、教会のすべての仕事、とりわけ私たちと共に祝福を受けた他のすべてのカップルの生活との関わりのなかで自身を見るだろう。」(注47)

 統一運動の中で結婚したカップルは、現時点では頻繁で長期にわたり、しばしば痛みを伴うような配偶者や子供たちとの別居を必然的に伴うにもかかわらず、非常に現実的なやり方でこの理想を実現している。彼らは、天国の基礎が築かれた暁には、(注48)夫婦としての理想を彼らが共に生きる共同体の中で成就することができると信じ、希望を持っているのである。

 結婚における性は、この研究の全般的な議論と密接な関係のあるいくつかの問題を提起する。私たちは既に婚前の性交渉の禁止がもつ神学的および社会学的な意義を分析したが、それが堕落と復帰の教理に基いた絶対的なものであり、またグループの団結を促進し信仰を維持する上で肯定的な影響を与えていることを示した。統一運動が性や恋愛に関する表現を規制し最小限にしようとしていることは、これが世界の支配に関心を持つ同じようなグループにも共通する実践であることを思えば、驚くに値しない。(注49)しかしながら、統一運動は結婚における性の表現が神聖なものであるとみなしている点で、そのようなグループとは異なっていると主張する。そこに含意されているのは、夫婦の性交はより大きな目的、例えば繁殖のための手段に過ぎないのではなく、それ自体を目的とし得るものであるということだ。この主張は、被造物が善であることを肯定する運動の神学の中に確かに暗示されている。それは文師のある説教の中でも示唆されている:
「統一教会の祝福は、生命、愛、そして神様の理想が肉的、横的なレベルで顕現したものです。夫と妻が一体となるとき、それは神様の完全なる対象となり、神様とそのカップルの間に授受作用の円環が作られるのです。そのときに神様の真実の恍惚とした喜びが実現されるのです。」(注50)

 さらにまた、インタビューを受けたメンバーたちは祝福結婚における性は「最も神聖なものであり」、神の愛がその関係の中心にあるので基本的に善であるという点においては、ほとんど満場一致であった。そして、最後にアイリーン・バーカーは以下のように報告している。統一教会の信者は、
「・・・独身の修道生活を求めない。愛が最も重要なものであり、神を中心とした関係におけるその身体的表現は、楽しむべき神からの積極的な賜物であると見られている。男性と女性が授受作用の関係の中で完全に一体となり、相互補完的な関係で一つになることができるのは結婚によってのみである。男性は女性と一つになることによってのみ満たされるようになるが、それは神を中心とした合一でなければならない。」(注51)

 もし祝福結婚における性交が真に神聖なものであれば、われわれはそれが、繁殖のような他の目的の手段になることがあったとしても、それ自体で目的であるとみなされるだろうと合理的に期待することができる。この問題に関するグループの神学的立場は、私がインタビューした一人によって非常にうまく表現されたので、私は彼の言葉をある程度長く引用しようと思う。
「統一神学はキリスト教の伝統においてはその意味で非常にユニークだ。その理由は、私が考えるには、それが性行為というものを神が定めた制限の中で行われない場合には最も酷いものであるとみなすとともに、それがその制限の中で行われた場合には最も貴く、最も実りあるものであるとみなしているからだ。」(注52)

 以下に続く内容の目的は、祝福結婚における性が本質的に善であるという統一運動の主張を「テスト」することにある。われわれはこれを結婚における性行為に対するメンバーの期待を調査すること、グループの避妊に対する立場について調べること、そして私がその「宗教的な性のダイナミズム」と呼ぶものについて調べることによって行う。結婚したメンバーたちが結婚における性に彼らが何を期待するかを尋ねられたとき、彼らの反応は非常に肯定的なものであり、熱狂的でさえあった。彼らはそれについて、「親密さの重要な形」「われわれの関係の有意義な部分」「お互いについてより良く知る方法」「喜びの源泉」「あらゆる幸福な結婚に不可欠な要素」などと語った。二人の婚約中の女性は、それが「楽しみ」でさえあるだろうという彼らの希望を表明した。数名のメンバーは、カップルには自分たち自身の夫婦生活のあり方を決定する権利があることを文師が是認していると確信していた。
「私は文師がこのことについて語るのを聞いたが、彼は婚前の性行為や不倫、およびその種の行為に対しては激しく非難していたが、一方で、同じときの同じ話の中で、まさしく(ショー氏の妻が)言っていたようなことについて語っていた。ひとたび結婚すれば、そのときあなたと神と相対者との関係のプライバシーの中で、あなたには自由があるのだと・・・」(注53)

(注45)伝道の書4:9a。
(注46)インタビュー:インタビュー:マリー女史。
(注47)インタビュー:ウェア氏。
(注48)これがいつ実現されるかを知っているメンバーは一人もいない。
(注49)ウェーバー『宗教社会学』、特にp.240、マンシー『ユートピア主義の共同体における性と結婚:19世紀アメリカ』、およびフォスター『宗教と性』を参照のこと。
(注50)文鮮明『祝福』p. 4。
(注51)アイリーン・バーカー『統一原理を生きる』p.88。
(注52)インタビュー: リントン氏。
(注53)インタビュー:ショー夫妻。文師の語った内容の多く、とりわけ論争の多い主題に関するものは、決して文字にされて印刷されないということを、読者が理解することは重要である。

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