第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(3)
統一運動で性的感情がどのように扱われているのかを説明する上で役に立つのが、「年長の」兄弟ボルトン氏に関する逸話である。彼は性に関する悩みを相談しにきた若い男性のメンバーについて語った。その若い男性は、自分は頻繁に勃起をするので「サタンに侵入される」危険があると考えていた。その古いメンバーは、それは彼の年齢の者としては「完全に自然な」ことであり、「性欲」が問題となるのは人がそれを楽しみ、そのことを考え、それに従って行動することを考えるときだけだ、と彼に説明した。同じ話し合いの後半に、ボルトン氏は筆者に対して「成熟したクリスチャンはそれ(性欲)を自然なものとして受け入れ、その上で神を中心とした生活を送り続ける」(注19)と語った。
上記に照らして明らかなことは、運動のメンバーは性欲は自然なものであり、人間性に対して神が与えた属性であるのに対して、情欲は神を中心としない方法で特定の欲望を「楽しむこと」であるという、かなりはっきりとした区別をしているということだ。何人かの回答者が、マタイ伝5章27-28節のイエスの教えを解釈する上で、そのような区別をしていた。(訳注:「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」というイエスの言葉を指す)社会学的な視点からは、性的な感情に執拗に「こだわる」ことは、メンバーが宗教的共同体の忠実なメンバーとしての自身の役割あるいは「使命」に完全に献身するのを妨げるだけである、ということも明らかであった。
性欲に対する統一運動のアプローチは、性というものは創造における善の一部であるというグループの信仰に対する忠実さを表している。同時に、性欲と情欲の区別は、個々のメンバーが、とりわけ未婚の者において、グループにおける自身の適切な役割と使命に集中することを促すように機能している。性欲に夢中になることは、明らかに組織の共同体生活にとって有害であり、兄弟姉妹の関係を破壊し、神学的に正当とされる目標の追求を損ねるのである。(注20)
「祝福」を受けて結婚を成立させる前に、統一教会の信者たちは3年間から7年間にわたって独身生活を送る期間を通過する。この一時的な禁欲は、第一祝福である個性完成を実現する努力の不可欠かつ重要な一部をなしている。この習慣が含意しまた支持しているのは、婚前の性交渉は神の目から見ても、また人間関係に有害な影響を及ぼすという点からも間違っているという統一教会の信条である。第二章で示したように、統一神学は霊的堕落と肉的堕落はアダムとエバの婚前の性行為の結果として起きたと教えている。人類始祖は神の戒めに従わなかっただけでなく、彼らは霊的にも心理的にも、愛のある親密な性関係に入るほどには「成熟」していなかったのである。神の命令と人間の成熟という二つの焦点が、運動が「淫行」(注21)に反対する基準を提供しているのである。婚前の性関係は神の意思に反し、個人と社会にとって破壊的なものである。
神の戒めに関しては、インタビューを受けたすべてのメンバーが「婚前のセックスはそれ自体で悪である」(注22)という立場を取ったと同時に、彼らの道徳的な視点を明らかにして説明するいくつかの洞察を紹介した:
「・・・それ(性交)が神の祝福を伴うまでは、それはサタンの我々に対する支配を強化するものだ。」(注23)
「知っての通り、確かに人々は過ちを犯す。それは我々が厳しい裁きを受けるということではない。多くの人々は違った見方をしているということは分かっているけれども、私は客観的に見てそれは悪だと思う。」(注24)
「誰もが結婚に対して純潔の理想を抱いているが、誘惑と社会がそれを大目に見ることが足を引っ張るのだ。」(注25)
「そうだ、統一原理によれば(婚前の性交渉は悪だ)。しかし、私は神に同じ質問をして、神のこの問題に対する考えを聞きたい。ときどき私自身も疑問に思う。」(注26)
「一般的には、そうだ、婚前のセックスは悪だ。しかし、このことは(統一)教会は堕落した世界の根本原理には同意しないという考えによって制限されるべきだ」(注27)
運動のメンバーは神の戒めを忠実に守っているが、彼らはこの価値観を支持する理由を提示したいという欲求と、また理解と同情によって彼らの視点を和らげようという意思を示した。
結婚前の純潔が絶対的な価値であるか否かは、前段落の最後の引用において示唆されていた。多くのメンバーが婚前のセックスに対する反対を、運動は堕落した世界の絶対原理には固執しないという考えによって制限した。しかし、これらの人々が婚前のセックスが悪だとみなされない場合について説明してほしいと尋ねられると、唯一の事例として挙げられたのはイエスの母親であるマリヤであった。(注28)だとすると、婚前交渉の禁止は絶対的でないという主張は、純粋に神学的なものであると思われる。実際には、婚前の性関係は無条件に禁止されている。
しかしながら、このことは淫行が許し難い罪であることを意味しない。神学的に正当な結婚は祝福のみであるため、入教するはるか以前に「結婚した」カップルは、実際にはすでに淫行を犯しているのである。純潔を守ることをルールとする聖別期間を過ごし、性的な罪を含む過去の罪に対する蕩減が支払われた後、これらのカップルは文師夫妻によって祝福されるのである。また、多くの未婚のメンバーも入教前には性的に活発であったのだか、彼らももちろん最終的には祝福を受けるのである。性関係を持った独身のメンバーに関しては、彼らもまた、信仰を刷新し適切な厳しさの蕩減条件を全うすることにより、許されて最終的には結婚を祝福されることが可能であると信じるに足る理由がある。
(注19)インタビュー:ボルトン氏
(注20)いかにして「エロティシズムの勢力が救済宗教と特定の緊張関係に入る」かについてのウェーバーの洞察に満ちた議論を参照のこと。(『宗教社会学』pp. 236-242)
(注21)回答者たちはかなり一貫してこの言葉を、より一般的な「性的不道徳」という意味よりも、より限定された「婚前の性交渉」という意味で使用した。
(注22)インタビュー:メイ氏
(注23)個人的な交流:ショー夫人
(注24)インタビュー:スマート夫人
(注25)インタビュー:スマート氏
(注26)個人的な交流:エンゲル氏
(注27)インタビュー:ボーデン氏
(注28)ボーデン氏とのインタビュー:統一教会の教えはイエスの誕生が神の摂理的計画の一部であったことを信じているが、処女降誕を文字通りにはとらえていない。金(永雲)によれば、年老いた祭司ザカリアがイエスの生物学的な父親である。(『統一神学』pp. 194-197)