書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』126


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第126回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、前回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Hの事例の二回目である。

 櫻井氏の記述によれば、Hは「霊感が強い方」だということになっている。わざわざ鉤括弧でくくって表記しているのは、H自身がインタビューの中でそのように語ったということだ。櫻井氏がHにインタビューを行ったのは脱会して二年目だが、その時点でも彼女のは霊界の存在や、自身にそれを感知する能力があることを信じていたことになる。おそらくそれは統一教会に入る以前からの彼女の考え方の一部だったのであり、統一教会によって霊界の存在を教え込まれ、信じさせられたというわけではない。それは統一教会の信仰を辞めた後でさえ、インタビューにおける自己認識の中で「霊感が強い」という言葉が出てくることからも明らかである。Hはもともと目に見えない世界に対する興味や感性を持っていたのであり、いわゆる宗教性があったのである。

 これは統一教会に伝道される素養のある人々が持っている、共通の特徴であると言える。加えて「神や宇宙の始まりといったことに素朴な関心を持っていたが、拘束してくる宗教を嫌っていた」(p.371)というのも、伝道される人の典型的な特徴である。『ムーニーの成り立ち』においてアイリーン・バーカー博士は、ムーニーとなった若者たちが統一教会に最初に出会ったときには、その過半数が神は信じているけれども、ある特定の宗教は拒絶するか、あるいはある特定の宗教に属しているとは感じていないと述べたという。彼らはカトリックや英国国教会に代表されるようなイギリスの伝統的な教会に幻滅していたのであり、何かそれに代わるものを探していたのである。そしてほとんど全てのムーニーが運動に出会った後にある種の霊的または宗教的な体験をしたと言ったが、彼らの優に4分の3以上は、運動に出会う「以前にも」そのような体験をしていたと主張したという。(『ムーニーの成り立ち』第9章「感受性」より)

 したがって、拘束してくる宗教を嫌いながらも神、宇宙の始まり、霊界といった宗教的な事柄に関心の強かったHは、統一教会に伝道された人としては典型的な素養を持っていたと言ってよいだろう。そもそも、神や霊界といった目に見えない存在を最初から否定し、関心を持たないような人は、伝道の入り口のところで淘汰されてしまうのである。

 Hが伝道された入り口は姓名判断による占いである。「殺傷因縁」や「色情因縁」という印鑑販売において典型的に使われていたトークを受けたということだが、結論として勧められたのは何かを購入することではなく、「婦人教養講座」を12000円で受講することだった。Hは物品販売を契機として伝道されたのではなく、占いから直接ビデオ受講に進んで行ったことが分かる。占いのトークにはHは恐怖しか感じなかったようだが、「婦人教養講座」のビデオの内容は彼女がかねてより抱いていた関心に合っており、これがHが伝道されていく直接的な原因となった。占いはきっかけに過ぎなかったということだ。

 Hは、「初級コースでは因縁や霊界の講話、『不幸の原因』『不倫による家庭の崩壊』『生命に対する尊厳性』等のビデオが見せられ、引き込まれていった。専業主婦が日頃直面する女性個人としての生き方と妻・母としての役割が葛藤するときはどのように対処したらよいのか、三世代家族の場合には嫁姑の葛藤をどう解決するかといった方法を教えられ、納得するところがあった。」(p.371)と書かれていることから、彼女がビデオの内容に関心を持ち、納得しながら学んでいたことが分かる。彼女が講座を受け続けた理由は、不安や恐怖ではなく、これを学んで行けば自分の抱えている問題が解決されるかもしれないという希望と関心であった。彼女には学習に対する主体的な動機があったのだ。

 櫻井氏は、「ツーデーズセミナーやその他の講義に参加していく際に、罪の告白(家族に献身的でない、婚前交渉の経験、妊娠中絶の経験に関わる情報)が強要されたりもした。」(p.371)と述べている。しかし何をもって「強要」というのか、彼は明確にしていない。強要とは辞書的には「無理に要求すること。無理やりさせようとすること」だが、これだけではその意味は明確でない。刑法上の強要罪は、「生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害」(第223条)した場合に成立することになっている。もし信者Hがそのような方法で罪の告白をさせられたことを証言したのであれば、それは統一教会の罪状を暴く絶好のチャンスとなるので、櫻井氏がそのことを記述しないはずはない。にもかかわらず、脅しや外的な強制力を用いて罪の告白をさせた経緯は一切書かれていないのである。そうしたことがなかったからにほかならない。

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、青年信者に対する新生トレーニングでも受講生がこれまでの人生における異性関係を告白して罪を悔い改めることを求められることがあると記述している。青年と同様、壮婦の場合にも伝道される過程において過去の罪を告白する場合があるだろう。しかし、それを本人が納得して行ったのであればそれは強要ではなく、自由意思によるものである。人は通常、信頼できない人に自分のプライバシーにかかわることや悩みなどを話したりしないものだ。それを話したということは、ビデオ受講のカウンセラーを信頼していたからにほかならない。それは心許せる相手に対する単なる愚痴とも異なるものである。ビデオや講話の中で人間の罪に関する宗教的な話があり、それが心に響いたからこそ、自分にもそれに該当する罪があるとき、人はそれを告白することによって解放され、救いを得たいと欲するものなのである。Hはビデオ受講のカウンセラーに対して、ちょうどカトリックの信者が神父に対して罪の告白をするのと同じような感覚を抱いていたのであろう。

 これはキリスト教の「告解」をはじめとして、多くの宗教に共通する救いのプロセスの一つであり、その宗教的意義は十分に尊重されなければならない。こうした現象を宗教学者である櫻井氏が知らないはずはないが、彼はあえてその宗教的な意義には目をつぶり、根拠も示さずに「強要」という言葉で片付けてしまっているのである。

 Hは、「通い始めてから二ヶ月ほど経ち、『トレーニング』を勧められ、朝10時から午後2時半までの間、毎日子供を連れて通うことにした。その期間に「主の路程」が講義された。そのとき、メシヤが地上天国実現のために、あまりにも悲惨で過酷な生活の中で神の摂理、人類(H自身)救済をなしてきたということに対して申し訳なく感じた。」(p.371)とされている。通い始めてから二ヶ月でここまで理解したということは、Hはかなり宗教的感性の豊かな優秀な受講生だったことが分かる。こうした話を聞かされても、自分と何の関係があるのか理解できない受講生もいるからである。

 櫻井氏は青年信者が伝道されるプロセスにおいて、勧誘されてから統一教会の信者になることを決意するまでの期間は4ヶ月が突出して多く、それはフォーデーズセミナーを終えた時点であるしている。(p.211)これはちょうどメシヤが文鮮明師であると明かされるときであり、そこまで4ヶ月かかる場合が多いということだ。多くの受講生は出会って4ヶ月で自分の学んでいるものが何であるかを知り、約半年でそこで行われている活動の中身を知るようになる。その時点で、自分がそれまで聞いてきた宗教的な世界観や実践を受け入れるか否かを判断するための、基本的な情報をすべて与えられるわけだ。人生の中において、これは決して後戻りできないほどに長すぎる時間ではないし、実際に「いい勉強だったが自分には合わない」と言って、トレーニング終了後に関係を絶ってしまう受講生も多数いるのである。

 それに比べれば、Hは2ヶ月というさらに短い期間で基本的な情報を知らされ、さらにその先に進むか否かを判断する機会を与えられたことになる。櫻井氏の記述によれば、Hは「このとき初めてここは宗教で、統一教会だということもわかった。一瞬、『やっぱり、宗教じゃない。欺された』と思った。しかし、もうそのときには統一原理の内容を受け入れるようになっていたので、疑うことができなくなっていた。心の中で、これまで導いてくださった神様、先祖に対して、『どんなに苦しい道だったとしても必ず使命を全うします』と誓うまでになっていた。そして統一教会入会書にサインをした。」(p.371-2)となっているが、これは典型的な「マインド・コントロール論者」の物言いである。

 やっぱり宗教だとわかったにも関わらず、先に聞かされた教義を信じてしまっていたので、騙されたにもかかわらず疑い得なくなっているから、操作されているという理屈である。しかし、ここでもHは合理的な判断をしているのである。Hが求めていたのは自分の人生を導く真理であったが、宗教という形式には抵抗があった。しかし、自分が学んだ内容がこれこそ真理であると納得のできるものであったため、それが宗教の教義であるという形式は気にならなくなってしまったということなのである。ここでHは、真理に対する納得度と宗教に対する抵抗感を天秤にかけ、前者がはるかに重かったので、後者を軽視したのに過ぎない。これがH以外の人物であり、学んだ内容に対する納得度が低く、宗教団体に入会することに対する抵抗がそれ以上に大きかった場合には、この時点で関係を絶つという、もう一つの合理的選択も可能であるということだ。要は、その人の天秤がどちらに振れるかの問題であり、それはその人の個性によって決定される合理的な選択なのである。

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