書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』22


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第22回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第3章 統一教会の教団形成と宣教戦略」の続き

 櫻井氏は本章の中で、「社会問題化する宣教」というテーマを掲げ、統一教会がなぜ社会問題化したのかを明らかにしようと試みている。彼は以下のように論じている。
「本書では統一教会はカルトだから社会に危害を与えるという論法ではなく、どのような組織構造と運動戦略を持つためにカルト視され、社会問題化されるに至ったのか、そのことこそ明らかにしなければならない問題と考えている」(p.85-86)「本章では、統一教会が社会問題化(カルト化)した理由を時代背景から読み解くのではなく、教団の組織構造や活動戦略、信者の実践的行動の特徴から考察しようと思う」(p.87)

 特定集団が社会問題化した原因を、その集団の組織構造と運動戦略、さらにはその構成員の実践的行動から分析しようとする姿勢自体は正しいと言えるであろう。しかしながら、それらを正確に知ろうと思えば、その運動の内部に深く入り込まなければ不可能である。第三者がこうした情報を得る方法の一つに「参与観察」があり、アイリーン・バーカー博士は統一教会のセンターに寝泊まりしながら組織のリーダーやメンバーの生活を直接観察した。しかし、櫻井氏はそれをしていない。

 特定組織の構造や活動実態を知ろうとするときには、どこから情報を得たのかということが問題となる。生きた組織の人間関係に関する情報を教団の刊行物から得ることは困難なので、証言に頼ることになるわけだが、どのような立場の人がどのような動機で語ったかによってその描写は変わってくるので、資料に対する批判的な姿勢が必要である。もし櫻井氏が統一教会反対派から紹介された元信者の証言や裁判資料に基づいて統一教会の組織構造や活動実態を把握したというのであれば、それは資料の客観性において重大な問題があると言えるであろう。それらは明らかにネガティブ・バイアスがかかった証言であるからだ。こうした問題に関しては、これから先の記述において指摘することにする。

 櫻井氏は、統一教会の資源動員戦略を分析することを通して、どこに社会問題性があるのかを明らかにしたいと述べた上で、日本統一教会の成立と発展について説明を始める。文鮮明師の経歴と韓国で統一教会が設立された経緯についてごく簡単に触れた後に、崔奉春(日本名は西川勝)宣教師によって統一教会の日本宣教がなされたことに簡単に触れている。この辺の記述は統一教会の公式見解と異なるところはないが、崔奉春宣教師に関わる部分に関しては、かなり独特な理解がなされている点が興味深い。例えば以下のようなくだりである。
「崔は、教祖や韓国の教会幹部とは異なり、日本において清貧の信仰生活を守ったこともあって、既成のキリスト教信者や当時立正佼成会において幹部候補だった久保木修己等、多くの青年を運動に巻き込むことに成功した。」(p.88-89)
「しかしながら、文鮮明は崔が日本であまりに勢力を拡大することを懸念し、統一教が宣教の中心をアメリカに求めたこともあって、崔をアメリカの宣教担当に配した。その後、ほどなく、崔は文鮮明と教団内部の宣教方針において対立するようになり、左遷された後、教団を離脱している」(p.89)

 ここで興味深いのは、崔奉春宣教師が清貧の信仰生活を守ったのに対して、教祖や韓国の教団幹部はそうではないというように、極めて対照的な評価がなされているということだ。統一教会の内部では、崔宣教師の日本開拓時代の信仰生活が素晴らしかったことは、桜井節子氏による「西川先生の思い出」に関する証しなどを通してよく知られている。しかし、それが文鮮明師や韓国の幹部の生活が贅沢で堕落しているという前提で語られることはない。つまり、この対比には特定の意図やバイアスの匂いがするのである。

 さらに、崔宣教師が日本であまりに勢力を拡大することを懸念して、文鮮明師が彼をアメリカに送ったなどという話は、統一教会で語られる教会史では聞いたことがない。そもそも日本宣教に成功して基盤を作ることは文鮮明師自身の願いであったのだから、それを懸念するという解釈自体が意味をなさない。櫻井氏の記述によれば、崔宣教師は左遷された後に教団を離脱したとなっている。こうしたうがったものの見方は、おそらく教会を離れた後の崔奉春宣教師の見解を反映しているのであろう。なぜなら、櫻井氏自身が2006年8月に「崔奉春宣教師と直接面談し、韓国における初期の統一教や日本宣教の様子、現時点における文鮮明や統一教会への見解等も聞き取っている」(p.89)と述べているからである。しかし、問題はどちらの見解がより客観的に真実に近いかということである。櫻井氏は「統一教会性悪説」に立っているため、教団刊行物の記述は信じられず、教会を離れた崔宣教師の主張を鵜呑みにした可能性がある。

 崔奉春宣教師が日本を離れアメリカに出発する際に日本の教会員たちに対して語った言葉は、統一教会側の出版物である『日本統一運動史』には以下のように記されている:
「日本の兄弟たちとの温かい心情の交流もまたたく間に過ぎてしまった。使命のためアメリカへ行かなければならない。日本には早く帰って来るとも言えるし、遅くなるとも言える。すべては天の父の御こころのままに人類の救いの道を歩みたい。日本の兄弟たちよ、横を見、後ろを見て卑怯者と言われることなく、勝利を目指してひたすら突き進んで欲しい」(p.231)

 このメッセージには、日本の兄弟姉妹に愛着を感じるのは人情としても、文鮮明師に対する恨みがましい気持ちは一切表現されていない。むしろ神の御心に従い、自分に与えられたアメリカでの使命を果たそうとする潔ささえ感じさせる。崔宣教師が日本宣教に成功して基盤を築いたことは、彼の大きな功績として文鮮明師から認識されていたはずである。だからこそ、その手腕を買われて、これから基盤を作らなければならないアメリカの宣教を任されたと解釈するのが自然ではないだろうか。さらに、崔宣教師はもともと密航者として日本に入国していたという事情もあったし、これから日本の教会が発展して社会に認められるためには、いつまでも韓国人の宣教師が指導するのではなく、そろそろ日本人のリーダーシップを確立する必要があるという配慮も当然あったであろう。

 アイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』によると、1965年に日本を出た崔宣教師はカリフォルニアに移り、日本で発展させた多くの実践方法を持ち込んで「オークランド・ファミリー」と呼ばれる集団を形成したとされる。崔宣教師の指導したこの集団は、1960年代の後半から1970年代初めにかけて成長し続けたという。彼はアメリカで一定の成功を収めたのである。もし当時の彼が、文鮮明師の命令によって日本を離れアメリカに送られたことを恨んでいたとすれば、このような熱心な宣教活動を説明することができない。彼は文鮮明師の期待に応えようとして、日本での成功体験をもとにしてアメリカでの宣教に全身全霊を投入したとみるのが自然であろう。

 しかし、崔宣教師はその後教会を離れることになる。文鮮明師が彼の日本での影響力の拡大を懸念したとか、アメリカに左遷したというような認識は、彼が教会を離れた後になってから、自分の立場を正当化するために考え出された解釈であるとみることができる。櫻井氏の記述は、そうした脱会後の崔宣教師の認識をもとに書かれたものである。一般に歴史資料の信憑性を判断するとき、その出来事が起こってから何十年もたってから懐古的に語られる証言よりも、事件が起こった当時に書かれたものの方が価値が高いとされる。時間の経過とともに記憶を塗り替えたり再解釈する可能性があるからである。『日本統一運動史』に引用されている崔宣教師のメッセージの日付は1965年11月12日となっているから、当時の崔宣教師の理解や心境をより正確に反映しているのはこちらの資料であると言えるであろう。

 櫻井氏は、「脱会し、教会に批判的な態度をとった人物の行跡に関しては、教団史や刊行物において編集が加えられる等の問題がある」(p.89)としている。だとすれば、教団を離れた崔宣教師の行跡は削除されるか、否定的に描かれていても不思議ではない。しかしながら、2000年に発行された『日本統一運動史』においても、2008年に発行された『日本統一教会 先駆者たちの証言①』においても、崔宣教師の日本宣教のストーリーは詳細に記述されており、そこには否定的な要素は一切存在しない。崔奉春宣教師はいまでも日本統一教会の開拓者として尊敬されているのである。しかも後者の著作には、第三者の記述ではなく、崔宣教師自身の「日本伝道日記」が掲載されている。これは第一人称で書かれた歴史的記録であり、他者の解釈の入り込む余地のないものである。したがって、歴史的事実に忠実で客観的なのはむしろ統一教会の刊行物であり、離教後の崔宣教師の証言はバイアスのかかったものであると言えるのである。

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