書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』124


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第124回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第119回から「四 祝福を受けた信者 合同結婚式の理想と現実」に入り、第121回から具体的な事例として韓日祝福を受けて渡韓し、離婚して日本に帰ってきた元信者FとGのインタビュー内容を扱ってきた。彼女たちの葛藤を一言で表現すれば、日本と韓国の文化的ギャップに耐えられず、カルチャーショックを起こしたといってよい。それは夫の親族との付き合いにおける日韓の文化的な差異であると同時に、日本と韓国の統一教会の文化の違いであった。FとGは韓国の統一教会は信仰的でもなく霊的に高くもないと感じたのであるが、それは外的な規則や表現を重要視する日本的な「ものさし」をもって韓国人を裁いたに過ぎない可能性が高いことを前回は指摘した。彼女たちは自分の日本人としての「ものさし」では測ることのできない韓国人の信仰の本質的な部分を発見することができなかったので、韓国の統一教会に対して幻滅し、失望してしまったということである。

 私自身、Gのインタビューに出てくる「夫の実家はみな食口(統一教会信者)であり、夫は成和学生といって、幼少のときから統一教会系の学校に通っていた。しかし『原理講論』と読んだことはなかった。友人付き合いなど楽しいことの好きな人だった。」(p.365)という一文を見て、あることを思い出した。それはGと同じように韓日祝福を受けて韓国にお嫁に行った知り合いの姉妹の言葉である。

 彼女の主体者は親戚に教会員がいて、その人から「統一教会に入れば結婚できる」と言われ、それを動機として入教し、祝福を受けた韓国人であった。こうした場合、祝福を受ける動機は結婚そのものにあるので、宗教的教育は一通りの原理講義を聞いて終わりという場合が多い。『原理講論』を読んだこともなく、その内容を細かく覚えてはいない。伝道される過程で原理講義を何度も受け、『原理講論』を熱心に読む日本の統一教会信者から見れば、「本当に原理を分かっているのかしら?」と思うかも知れない。

 ところが、彼女のとらえ方は違っていた。主体者の両親と同居しながら結婚生活をする中で、主体者が両親に親孝行する姿に感動したのである。主体者はいわゆる優秀で社会的地位のある人ではなかったが、思いやりがあり、人に尽くす人であった。その姿を通して彼女が感じたのは、「自分は『原理講論』の内容を頭で知っているけれども、実際には人の為に生きる生活が出来ていない。しかし、彼は教理としての原理は良く知らないかもしれないけれども、生活の中で自然に親孝行し、人の為に生きている。彼は心で原理を知っているのであり、彼の生活は私よりも原理的かもしれない」ということであった。日本人は信仰をとかく理論理屈でとらえるのに対して、韓国人にとってそれは生活の中で自然な情の発露として現れるものであるという、典型的な例であった。彼女はそうした夫を尊敬し、愛し、二人の子供に恵まれて韓国で幸せに暮らしている。彼女が韓国に適応できた主要な理由は、自分の日本人としての「ものさし」で韓国人を裁くことなく、韓国人の中にある本質的な良さを発見することができたことにある。

 『本郷人の道』のなかで、武藤氏は以下のように述べている。
「実際、韓国社会でこの任地期間の三年間を過ごしていくうちには、私たちの中には明らかに二タイプの人が現われ、韓国人との人間関係と、この国の住みやすさに惚れ込むようになるタイプと、韓国に批判的な感情しか持てずに日本に帰ることを願うタイプに分かれてしまいます。

 異文化の中では、物事をプラス的に見ることができる人はその文化の心情的内容から良いものだけを吸収してどんどん成長して行くのに対し、マイナス的に見てしまう人は悪い堕落性の部分に相対して批判しながらどんどん居場所を失うようになってしまうものです。」(『本郷人の道』p.340)
「教会生活における韓日の一体化を考えた時に、韓国人と日本人が互いに理解不能に陥り、対立しやすい観点は、まず「韓国人は」「情的すぎて合理的話が通じない」「計画性がない」「約束を守らない」「自分の非を認めない」「おおざっぱすぎる」VS「日本人は」「冷情하다(情がなくて冷たい)」「マウミ・チョプタ(心が狭い)」「融通性イオプタ(融通性がない)」「毒하다(性格に毒がある)」「固執이 세다(我が強い)」などという感じになってしまいます。それはお互いにとにかく“自分にとって当然のことが相手においては全く通じない”というものなのです。

 基本的には、韓国人が何よりも『人間』としての情を中心に考えるのに対し、日本人は比較的理性を中心に考え、物事の合理性、規則性、契約性、計画性、さらにその達成感を重用視します。」(『本郷人の道』p.340-1)
「いずれにしても、私たちは批判してマイナスになるより、いいものを受け入れて自分にプラスになる発想をすること、いわゆる“アベル的な発想”をすることが重要なのです。」(『本郷人の道』p.348)

 FとGは、結局このような発想ができなかったために韓国に居場所がなくなってしまったと理解することができる。

 さて、櫻井氏は韓国人の夫に比べて日本人の妻が信仰熱心であるがゆえに生じる夫婦の葛藤についても記述している。日本人女性は清平の修練会に参加したがるが、韓国人の夫はそれに反対する。韓国の統一教会員は、教会よりも家族・親族のことを優先するが、日本では教会のために全てを投げ出すことが奨励される。それで日本人女性は「信仰的であればあるほど、自分達の家庭生活に犠牲を強いることになる。」(p.368)「御旨をやればやるほど家庭が崩壊していく。」「日本人女性は信仰と家族の板挟みで苦しんでいた。」(p.366)というような葛藤であった。実際、日本人の女性信者たちが韓日祝福を受けた理由は個人的な結婚というよりも「神の御旨のため」という意識が強く、結婚した後にも熱心に教会活動をしたいという願望があったであろう。一方で韓国の夫や親族が期待していたのは嫁として家族を守る役割だったので、この意識のギャップが日本人妻の苦しみの原因となったことは事実である。

 この点について、『本郷人の道』のなかで武藤氏は以下のように述べている。これは渡韓修において日本人女性に対してなされていた指導であると思われる。
「任地生活は本来、夫婦が一つの心情で共に行くべきもです。私たちが陥ってはいけない立場は、相対者に向かう横的情を犠牲にして信仰生活に投入する、といっては、『教会活動』を理由に相対者の意識を無視してしまい、結局、相対者の中に教会に対する不信感を抱かせてしまうことです。本来教会によって得た祝福であって、常に私たちを通して相対者が教会を理解し、教会に感謝し、そこから喜びを持って信仰生活ができるようにしていかなければなりません。時々、韓国の相対者に『あなたは教会と私のどちらを取るのか』などの思い詰めたことを言われてしまう例があります。結局、その『教会』と『私』を一つにできなかったということは、任地を共に勝利したということにはならず、家庭出発後も変わらずみ旨を中心に生活していくということが難しくなってくるのです。」(『本郷人の道』p.323)

 武藤氏は日本人女性に対して、こうした韓国人男性の心情をよく理解し、日本的な「ものさし」で裁くのではなく、極力その情に応えることによって、賢く対処することを勧めている。規則を優先させることの多い日本人は、韓国人からは情が淡白に見えることが多いので、韓国人の夫は妻の愛情を疑うようになる。それによって夫婦関係に溝や葛藤が生じないように、日本人女性の側が努力するように指導しているのである。

 最後に、FとGが二人とも離婚した後に、自分に子供がいることに対して違和感を感じたと櫻井氏が記述している部分を取り上げてみることにする。
F:「日本に帰ってきて、しばらくは何で自分に子供がいるのかわからなかった。夢の中にいた気分。脱会したときは、入会の20歳のときに戻り、子供がいることに違和感を覚えた。」(p.364)
G:「突然、統一教会のおかしさを確信して自分から信仰がストンと落ちた。気づいた瞬間、夢からさめた気分だった。すると目の前に子供がいた。子供に対して、自分の子供でありながら、これはなに? どうしてここにいるの? 誰の一歳半の子供だろう、という心境だった。」(p.367)

 まるで判で押したような同じ描写である。「マインド・コートロールの被害者」を演出したいのかもしれないが、これを文字通りに受け取るわけにはいかない。FもGも、信仰を失った瞬間に、信仰を持っていた頃の記憶を喪失したわけではなく、以前の年齢や人格に戻ったわけでもない。実際には「マインド・コートロールが解けて元の自分に戻る」などということはなく、信仰を持つ前、信仰を持っている期間、脱会後は時系列的につながっており、記憶は一貫しているけれども、それぞれの時期で違ったものの考え方をしているに過ぎないのである。

 FとGの覚えた違和感は、自分自身の結婚に対する後悔と敗北感、そして今後の生活に対する不安から、自分に子供がいるという重い現実から逃避したいという心理の表れであろう。しかし、信仰を持ったのも、結婚したのも、離婚したのも、信仰を棄てたのも、すべて自分自身の判断によるものであるから、その責任は自分自身が負わなければならない。「子供がいることに違和感を覚えた」などと言うのは、「マインド・コートロールによって意に反する結婚をさせられ、子供まで出来てしまった」と言っているようなものであり、生まれてきた子供に対して失礼である。櫻井は彼女たちが統一教会の被害者であるかのように描いているが、一方的に離婚を言い渡された韓国の夫も、両親の離婚を経験した子供たちも、彼女たちの行動の被害者であるという点を忘れてはならない。

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