書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』122


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第122回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第119回から「四 祝福を受けた信者 合同結婚式の理想と現実」に入り、先回から元信者Fの事例を扱い始めたが、今回はその続きである。Fが韓国で体験した葛藤は、日韓の文化的な違いからくるカルチャーショックであったが、先回は韓日祝福を受けた日本人女性がこうした困難を乗り越えるために統一教会が行っているサポートについて紹介した。それは彼女たちがお嫁に行く前に現地で受ける「渡韓修」と、それに続く4か月ほどの「任地生活」であり、その渡韓修で教育されている内容が、国際家庭特別巡回師室編『本郷人の道』という本の中にまとめられていることも紹介した。

 この本の後半の「生活教育編」では、韓国での生活全般について知っておくべき内容や文化の違いなどが紹介されているが、著者の武藤氏は、「まず最初に違いを正確に理解したところから真の一体化の道も開ける」(『本郷人の道』p.202)との考えから、韓国人と日本人のどこがどのように違うのかをまず追求している。そこで言われていることの主な項目を列挙すると以下のような感じである。
・韓国では一人で食べるのではなく、食べるときは「みんな一緒に」食べる。
・韓国人は食べ物があれば、まず最初に目上の人に「食べてください」と差し出す。
・「ご飯食べましたか」は韓国では挨拶であり、会えば人の食事の心配をする。
・韓国では「この食べ物は自分のものだ」という所有観念がない。
・韓国で食べ物を買いに行くときは、自分の分だけでなく、必ず全員分を買いに行く。
・おかずは一人ひとりに分けずに真ん中においてみんなで突っつく。
・韓国では一緒に食事をした仲間が「割り勘」をすることは絶対にありえない。
・韓国では人前で鼻をかむのは失礼にあたる。
・人に物を渡すときには、両手もしくは右手で渡す。右手で渡す際は左手を下に添える。
・韓国では長幼の序の意識が強く、敬老精神が徹底している。
・韓国では親は絶対的存在であり、自分の親をけなされると冷静ではいられない。

 これらの文化的な違いは、たとえ親族関係にならなかったとしても、韓国に留学したり、仕事で韓国に赴任したときには知っておくと役立つ内容であろう。しかし、結婚して韓国人と家族になれば、韓国の家庭のしきたりや親族関係に存在する独特の文化があるため、さらに深く韓国の文化を理解しなければならない。そこで武藤氏は、「親族への挨拶訪問」という一節をもうけて、愛される嫁として夫の親族に受け入れられるための秘訣を紹介しているのである。その部分の記述と、Fの体験談を比較してみると、Fの韓国文化に対する無知が、夫の親族との人間関係を難しくしていた可能性が浮かび上がってくる。武藤氏は、韓国の嫁入り習慣である「婚需」について以下のように説明している。
「参考として、韓国に嫁に来る女性が分かっていなければならないことは、韓国での伝統的な結婚時の贈り物は『婚需(ホンス)』といって、新婦側がひと財産投げうって贈り物や嫁入り道具を持っていくという風習があるということです。現在、『婚需』費用の相場は一般でも一千万ウォンを超えるといい、韓国人も驚くような額に上っています。本来ならば、新婦側ではまず冷蔵庫から、洗濯機、電子レンジなど、家具家財道具すべてを揃えなければなりません。」
「一方、新郎側はというと、住まいを準備して、新婦の服と『結婚礼物』としてのアクセサリー(イヤリング、ネックレス、指輪、時計など)、そして余裕があれば、新婦の両親に韓服をプレゼントします。これらが『婚需』というものなのです。」
「主体者の中にも、日本の嫁ということで反対されるのを認めてもらうために、嫁いでくる相対者が親にある程度の『婚需』を持ってきてくれることを願っていたなどの場合があります。日本人相対者の中で、結婚した後に、主体者側からお金を要求されて、『持参金目当ての結婚か』とつまづく人がいるようですが、それもこのような文化的背景から理解する必要があります。(以上、すべて『本郷人の道』p.213)

 もちろん、武藤氏はこの「婚需」の習慣を祝福家庭がそのごとくに実践することを勧めているわけではない。日本の教会員の場合には経済的な事情でそれができない場合が多いわけだが、それでも主体者の親がその文化的習慣から「婚需」を期待する気持ちがあることを理解したうえで、日本には「婚需」という習慣がないことや、自分たちの経済的事情ではそれができないことを相手方に理解してもらうために誠意をもって説明し、たとえ金額は小さくてもそれに代わる真心のこもった贈り物をすることで、親族との関係が円満に行くように努力することを勧めているのである。

 それを背景として、Fの記述を改めて読んでみよう。
「ソウルでは夫の叔母がマンションを買って、入居するばかりに準備してくれた。しかし、驚いたことに、マンションをもらえたわけではなく、ローンはそのままだった。しかも、夫方から資金援助がなく、ローンを全額自分達で返済する計画になっていた。これが、自分達にほとんど何の相談もなく決めていく夫側親族への不信の始まりだった。実際は、夫へ相談があったのかもしれないが、夫はFに一言も相談がなかった。コミュニケーションの問題は言葉のギャップということもあるが、男尊女卑、長幼の序が強すぎる韓国と日本の問題とも思えた。統一教会が理想とする韓国の文化にショックを受けた。」(p.363)

 まずFは、夫の親族がマンションの全額を支払って自分たちにプレゼントしてくれるとでも期待していたのだろうか? そうだとすれば、それは相当に虫の好い要求である。自立した経済を営む夫婦であれば、自分たちの住むマンションのローンを支払うことはある意味で常識ではないだろうか。外国で勝手が分からないだろうからとマンションを買って入居するばかりに準備してくれた夫の叔母は、明らかに親切心からそれを行っている。もしかしたら頭金だけを負担して、残りのローンは夫婦で責任をもつという話し合いがなされていたのかもしれない。それは決して非常識ではなく、要するにFがその意思決定に参加できなかったことを不満に思っただけのことである。

 韓国の「婚需」の習慣からすれば、Fは家具や家財道具などを全て揃えなければならなかったが、夫の叔母がマンションを買って入居するばかりに準備してくれたということは、それを夫の親族に頼って、自分では何も準備しなかったことを意味している。家財道具もお金も準備せずに身一つで韓国に嫁ぎ、親族に世話になったのだから、せめてマンションのローンぐらいは自分達夫婦で責任をもつべきだという発想が出来ず、ローン返済の責任が自分たちにあることに「驚いた」というのであるから、Fはかなり依存的で自己中心的な発想の持ち主であると言われても仕方がないであろう。

 Fは夫側親族と信頼関係を構築する努力をすることなく、「自分に何も相談しないで決めていく」と不満を抱き、相手を不信し始める。はたして彼女に、相手の立場に立って物事を考え、相手の文化を理解し、こちらの考えを相手に分かりやすく伝えることによって問題を解決していこうと努力する姿勢があったのかどうか、はなはだ疑問である。

 Fが問題とした「長幼の序」は、年長者と年少者との間にある秩序のことであり、子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方を指す。それは儒教において人の守るべき五つの道の一つとされ、父子の親、君臣の義、夫婦の別、朋友 の信と並んで、中国、韓国、日本において共通の徳目であった。もともと儒教社会であった韓国では、近代化と共に個人主義的になった日本に比べて、その伝統がいまでも強く残っている。これは統一教会で教える家庭倫理とも共通する内容であるため、もしFに信仰があるのであれば、その文化から自分が何かを学ぼうという発想をすべきではなかったのか。韓国ではそれが強すぎるから日本人である自分には合わないといって切り捨ててしまうのは、やはり自己中心的な態度であるといわざるを得ない。

 「長男である夫は両親に頭が上がらず従うばかりであり、不満のやり場がなかった。」というけれども、子が親に従順であることや、親孝行しようという子供の姿勢は儒教における重要な徳目であるだけでなく、統一教会においても一つの原理的な価値観として大切にされているものである。こうした韓国の文化を、単に自分の中にある現代日本の文化と合わないからといって不満を持つことは、やはり信仰者として正しい態度とは言えないであろう。韓日祝福を受けた以上は、そうした文化の違いを乗り越えて韓国の地で嫁として勝利するという決意をもって渡韓すべきであったのだが、Fはその点で中途半端であり、どこかに甘えがあったとしか思えない。

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