書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』123


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第123回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第119回から「四 祝福を受けた信者 合同結婚式の理想と現実」に入り、先回までは元信者Fの事例を扱ったが、今回からは元信者Gの事例に入る。FとGの事例の共通点は、どちらの夫にも妻に対する暴力、生活費を稼がない、不倫などの世間一般で離婚の原因となるような夫の側の明らかな落ち度がないばかりか、統一教会では禁止されている酒やタバコの問題もなく、単に日韓の文化的な違いに疑問を感じたとか、夫の親族に対する不信感や葛藤、といった理由で離婚に至っているという点である。現実には、FやGよりもはるかに厳しい環境下にあっても、それに耐えて夫婦関係も信仰も維持している日本人女性はいると思われる。こうした女性たちからすれば、FやGの経験した葛藤は「贅沢な悩み」に見えるのかもしれないが、それでもFとGはそれに耐えられずに離婚して信仰も棄ててしまった。

 Gに至っては、主体者(夫)には好感を持っていたし、「夫は家族を大切にし、自分を大切にしてくれた」(p.365)ということであるから、結婚生活そのものには特段の問題はなかったのである。櫻井氏はFとGをあたかも韓日祝福の被害者のように扱っているが、ひとたび妻の立場を離れ、夫の立場からこの物語を読めば、自分には何の落ち度もなく、夫として家庭を守るために一生懸命に努力していたにもかかわらず、自分には理解できない理由によってある日突然妻から離婚を言い渡された、ということになるであろう。これは気の毒としか言いようがない立場である。

 夫の関係に悪い思い出はなかったというGであったが、夫方の親族との間には以下のような葛藤を経験している。
「結婚式の取り決めなどで、金銭面で利用されているのではないかという気がした。Gの両親が来てくれて、80万円を出してくれたのだが、夫の親族には贈り物まで出し、その金をこちらで賄っているのに、自分の親への待遇は悪い。しかも、式は最低限の金で済ます。こうしたやり方や財布は一族のものという発想に反発して、祝福を蹴って帰ろうかと思ったほどだった。」(p.365)

 これもFの場合と同様の、「婚需(ホンス)」を巡る文化的な葛藤である。前回紹介したように、韓国での伝統的な結婚時の贈り物は「婚需」といって、新婦側がひと財産投げうって贈り物や嫁入り道具を持っていくという風習がある。「婚需」費用の相場は一般でも一千万ウォンを超えるといい、そのときの為替相場にもよるだろうが、Gの両親が準備した80万円という金額は相場とほぼ同じくらいか、やや下回るという金額であろう。だとすれば、韓国の婚姻風習からすればこの80万円は「当たり前」ということになる。Gとしてはそれが特別なことであると感じたために、自分の両親に対する感謝や待遇を期待したのであろうが、夫の親族の対応はその期待に沿うものではなかったということだ。

 ここで留意しなければならないのは、結婚式にかかる費用は日本と韓国では差があるということであろう。Gが結婚式を挙げたのは1990年代だから、日本と韓国の経済格差はいまよりはるかに大きかったであろう。いまでもネットで検索すれば、韓国で結婚式を挙げた場合にはその費用は日本で挙げるよりもかなり安く、式自体は30分ほどで終わってしまい、その後はバイキングで食事をして終わるというような、非常に簡素なものであることが紹介されている。一方、日本で披露宴と言えばホテルを借りて行う人生の一大イベントであり、その費用は平均で300万円を超えるといわれる。そもそもそれと同じようなものを韓国の庶民の家庭に期待すること自体が無理なのだが、一度親族に対して不信感を持ってしまうと、こうした違いの一つひとつが受け入れられないものになってしまうのであろう。ここでも、韓国の文化や風習に対する理解不足が葛藤の原因になっている。

 しかし、Gが最も葛藤し疑問に感じたのは、日本と韓国の統一教会の違いであった。これはFの事例でも同様なことが述べられているが、Gの表現によれば以下のようになる。
「韓国の統一教会の実態が徐々にわかるにつれて、日本との差が気になった。」(p.365)「韓国の夫達は(自分の妻が清平の修練会に参加することに対して)いい顔をしなかった。ところが、日本人妻は信仰に熱心な人が多く、みな参加したがり、夫の間に葛藤も生じた。」「日本人女性は信仰と家庭の板挟みで苦しんでいた。」「Gの場合、青年期に献身者として教会生活ができず不完全燃焼だったという思いがあった。そのため、祝福を受けて、韓国で新しい信仰を確立することに相当な期待を持っていた。ところが、日本で教えられてきた韓国は自分の理想とはほど遠く、韓国では最終的に自分なりの信仰観を持つことにした。」(p.366)

 FもGも共通して感じているのは、日本にいたときは韓国の統一教会は日本よりも信仰的で霊的に高いと教えられてきたが、実際に韓国に来てみるとそんなことはなく、かえって日本の統一教会の方が信仰的で、献身的で、活動熱心であるということである。これはFやGの個性から来るものではなく、かなりの日本人が共通して感じることのようである。しかし、それは日本人の信者が持っている「ものさし」で測った場合に、韓国人の信仰が低いように見えるということである可能性がある。文化的な葛藤とは通常そのようなものだからだ。この点に関して、『本郷人の道』のなかで武藤氏は以下のように述べている。
「たとえ国や文化が変わろうとも、“神と父母と原理は変わらない”という信仰それ自体を確認した上で、両国食口の信仰生活的側面における意識の違いを理解し、さまざまな葛藤を乗り越えて一体化していかなければなりません。」「しかし現実には、韓国人と日本人との間で、実体的にその信仰生活に接した時に互いに自分が信仰的に重視することを相手が重視しないことで、相手の信仰を裁いてしまうことが多くあります。驚くことは、この二つの国の信仰観をもって互いに相手を見つめた時には、互いに相手の信仰の方が幼いように見えるということです。」(『本郷人の道』p.282)

 武藤氏が韓国人と日本人の信仰観を比較して説明していることを要約すると以下のようになる。日本人はまず神と我の縦的関係を築くという旧約時代の立場から始めなければならず、その信仰生活は横的な自分を否定して縦的な関係を重要視するようになる。したがって日本人の信仰観は、み言葉を文字通り、外的に一字一句違えず守るという要素が強くならざるを得ない。そして外的な行動の基準や実績を立てることによって分別し、儀式的内容を厳密に重要視することを通して心霊の復活も果たされる。アベル・カインの関係も組織における規則的関係として捉えられることが多く、カインとしてアベルに従うことの重要性が強調される。

 一方、韓国では外的な蕩減条件以上に内的な「精誠」が重要視される。そして韓国の食口は神と真の父母に対する自分の信仰を人前にそれほど表現して見せないので、外から見ると信仰のない一般の人と変わらないように見える。それで問い詰めてみると、「そのようなことは分かっている」というように信仰の主体性があり、日本人のように自分と神との出会いや涙を流した話などをわざわざ人に知らせようとは思わない。韓国では「信教の自由」「本心の自由」が価値視され、教会でも何よりも個人の自由を尊重し、あまり干渉した指導をしない。アベル・カインの関係も絶対的なものではなく、韓国人は位置的なアベルの言葉に対して一様には従わないことがある。韓国人は目に見える組織を超えた心情組織を持っていて、信仰的には一人でしっかりしている。

 要約すれば、日本人は神との縦的な関係を築くために、つねに外的に縦的な表現を必要としており、それがないと不信仰であるかのように不安を感じるのであるが、それは韓国人からは旧約時代の信仰かパリサイ人律法学者の信仰のように感じてしまい、「幼い信仰」に見えるのだという。一方で、韓国人が日本人のように「神様、神様」と自分の信仰を口にせず、それよりも親に対する「孝」や夫婦間における「烈」を口にするので、日本人からは世間の人と変わらない横的で人情的な人であるように見えるのだということである。こう考えると、FやGが韓国の統一教会は信仰的でもなく霊的に高くもないと感じたのは、外的な規則や表現を重要視する日本的な「ものさし」をもって韓国人を裁いたに過ぎない可能性が高いということが分かるであろう。

 こうした日韓の信仰観の違いは、渡韓修の中で講義で教えられるのであるが、FもGもそのことを自分の実感としてはとらえることができず、自分の日本人としての「ものさし」では測ることのできない韓国人の信仰の本質的な部分を発見することができなかったので、韓国の統一教会に対して幻滅し、失望してしまうという結果になったのである。

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