書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』16


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第16回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
 「摂理的同時性の時代」に対して、考古学や聖書学などの実証主義的な歴史学の立場からの批判を行った後、櫻井氏は『原理講論』における摂理の成功例と失敗例を列記する。彼は①ノア家庭、②アブラハム家庭、③ヤコブ、④モーセとヨシュア、⑤イエスの例を挙げながら復帰原理の内容を解説しようとしているが、この解説では初めて読む人には復帰原理の本質はさっぱり分からないであろう。彼の復帰原理に対する理解の欠如は驚くほどである。『原理講論』の中で、修練会で「復帰原理」の具体例として講義される部分は「復帰基台摂理時代」と「モーセとイエスを中心とする復帰摂理」の部分である。これを合計すると145ページに及び、これは『原理講論』全体の約4分の1を占めるだけでなく、統一教会の信仰生活を導く重要な教訓がちりばめられている部分である。したがって、「復帰原理」の正しい理解なくして、統一教会の信仰生活を理解することはできない。それをわずか2ページほどの断片的な引用によって説明したというのではあまりにお粗末すぎる。

 櫻井氏の説明の中には基本的な間違いが含まれている。彼は「アブラハムの家庭の失敗」のところで、「カインがアベルを殺害することによって、天使長が人間を堕落せしめた堕落性本性を反復するようになり、アダムの家庭が立てるべきであった『実体基台』は立てられなかった」(296頁)と記述しているが、この部分は「アダム家庭の失敗」であり、実際に彼が引用している『原理講論』のページ数もアダム家庭の部分である。

 櫻井氏の復帰原理に関する総括は以下のようなものである。
「以上、簡単に歴史的同時性についての説明を終えたが、『原理講論』の説く歴史とは、結局のところ、壮大な歴史ドラマを物語っているようでありながら、聖書に登場するわずか五回分の摂理的中心人物について、蕩減の成功・失敗を解説しているにすぎない。イスラエル民族史や西ヨーロッパ史についても摂理的な説明を加えているが、史実や歴史学的含意を入れ込む水準ではない」(p.59)

 ここでも櫻井氏は『原理講論』を歴史学の学術論文かなにかと勘違いしているのではないかと思える。「わずか五回分の摂理的中心人物」とは櫻井氏の記述によればノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、イエスということになろうが、『原理講論』に忠実に表現すれば、①アダム(アベル)、②ノア、③アブラハム(イサク、ヤコブ)、④モーセ(ヨシュア)、⑤イエス(洗礼ヨハネ)と数えるのが適当であろう。『原理講論』は組織神学的構造を持つ教理解説書であるため、聖書の登場人物の行動に対する解説や評価が中心となるのは当然であるし、歴史資料としては「旧約聖書」「新約聖書」およびキリスト教を中心とする西洋史を用いると明言してから議論を展開している。その中で聖書に登場する人物に関する解説が詳しいのは、そこに歴史発展の原理原則が示されており、その後の歴史を解釈する上で極めて重要であるという理解をしているからである。

 確かに「摂理的同時性の時代」におけるイスラエル史の解説や、キリスト教を中心とする西洋史の解説が、創世記に登場する人物およびモーセとイエスに関する部分に比べて簡単に記述されているというのは事実であろう。それは『原理講論』が歴史学会に提出するような論文として書かれたものではなく、あくまでも信徒の信仰生活を導く教理解説書として書かれた書物であるからに他ならない。「復帰原理」や「摂理的同時性の時代」の記述の目的は、歴史学の探求にあるのではなく、実際に信仰生活を送っている信徒たちに対して、神の摂理がどのようにして成功したり失敗したりするのかという教訓を示し、現代という時代が神の摂理から見てどのような特別な時代であるのかを理解させることにある。

 『原理講論』が韓国で出版された1966年当時の状況に鑑みれば、創設されて間もない統一教会の信徒にとって、詳細な歴史学的記述は不必要であり、信仰の育成と教会の発展こそが最も重要な課題であった。したがって、歴史の詳細に関する学術的研究は後世の課題として残されたのである。こうした研究は、キリスト教の歴史においてもそれこそ何百年という単位の時間をかけて行われてきたものである。櫻井氏は統一教会の教学の専門部署に所属していた幹部達が学術的な反論をほとんどできなかったと批判するが、これもキリスト教における神学の発展史のスピードと比較してみるならば、あまりに性急な要求といえるであろう。

 私はアメリカの統一神学校でアンドリュー・ウィルソン博士から「イスラエル史」を学んだが、この授業は単に旧約聖書学的な観点から古代イスラエル史を学ぶだけでなく、『原理講論』における「摂理的同時性の時代」を構成する6つの期間の中から学生が好きな時代を選び、旧約時代のイスラエル史とキリスト教を中心とする西洋史の史実の中に、より詳しい同時性の出来事を発見するためのリサーチを行うということがレポートの課題として出されていた。私は「南北王朝分立時代と東西王朝分立時代」を選択し、旧約聖書の預言者エレミヤと、中世ドイツ(神聖ローマ帝国)のキリスト教神学者であり神秘主義者のマイスター・エックハルト(1260年頃~1328年頃)の間に、人物としての同時性を見いだすというレポートを書いた記憶がある。こうした研究は確かに面白いが、はたしてその解釈が正しいかどうかは現時点では何とも言えないものである。統一教会の神学研究機関が今後ますます発展し、学問の自由が保障された環境で活発な議論が積み重ねられていけば、学術的な議論に耐えうる「同時性」の詳しい解説が発展していくかもしれない。しかしそれはキリスト教神学の発展が長い時間を要したのと同じく、一朝一夕にはなされないものである。『原理講論』を種として、そこから芽が出て、やがて木となり、豊かな実りをもたらすのを待つしかないのである。

 最後に櫻井氏は「再臨論」の解説に入るが、ここで彼がやっているのはただ長々と『原理講論』を引用するということである。約5ページにわたり、途中に短い解説を入れながらもひたすらに『原理講論』を引用した後に彼が言うのは、「統一教会のセミナーでは、『原理講論』を最後の方から講義すべきだろう。そうすれば、信者は左記のような文言を読むうちに、この団体の教説の特異さに気づくはずである」(p.64-5)というおせっかいである。彼は特定教団の伝道方法や教義のプレゼンテーションの仕方を、わざわざ人々が受け入れにくいように改悪しなけばならないという驚くべき主張をする。

 櫻井氏が「『原理講論』の説く歴史とは、結局のところ、壮大な歴史ドラマを物語っているよう」(p.59)だと言うのであれば、その結論を最初に講義せよというのは、初めにネタバレになるような情報を告知してから3時間の歴史ドラマを見てくださいと要求するのに等しい。物語は順序を踏んで筋を追いながら、さまざまな伏線や展開を楽しみながら結末を予想しつつ、クライマックスを迎えるから面白いのであって、その結論を最初から知らされていたのでは興味は半減する。

 宗教的な教説を宣べ伝えるときのプレゼンテーションの順序や組み立ても同様であり、宣教者や説教者は通常、聴衆の心が中心的メッセージを受け入れるような状態になるまで十分に時間をかけて準備し、適切なときに適切な方法で自分の最も伝えたいことを述べるものである。それは表現の自由の範疇に属するものであり、第三者からとやかく言われる筋合いはない。

 櫻井氏は統一教会の教説の本質を、「普遍宗教の体裁をとりながら、その実、将来は民族宗教による世界平準化が目標」(p.63)とか、「普遍主義を擬装した民族主義」(p.65)と捉えている。私はこの見解に反対である。統一教会は、韓国で誕生した普遍宗教である。創設者と初期の信徒が韓国人であったため、そのルーツに韓国的要素があるのは当然である。しかし、世界中の国々に宣教されていく過程を通して、普遍宗教としての性格を強めていくものと思われる。それはキリスト教の「メシヤ」という概念そのものがユダヤ王国の復興というナショナリズムに基づくものであったにもかかわらず、最終的はそれが「人類の救い主」という概念に昇華され、普遍宗教に成長していったのと同じである。

 『原理講論』の再臨論には、櫻井氏の言う通り、肝心のメシヤが誰であるのかについては書かれていない。文鮮明師がメシヤであることを統一教会は証明しておらず、「要するに、文鮮明が自分を真の父母と言っていることを信じるかどうか、これだけである」(p.65)としたうえで、これを「統一教会の教説の弱さ」(p.66)であると櫻井氏は言う。しかし、彼は知らないのであろうか? キリスト教信仰の本質とは、「イエスが自分をキリストであると言っていることを信じるかどうか、これだけである」ということを。

 人がイエスをキリストとして受け入れるということは、合理的な分析によるものではなく、聖霊体験に代表されるような宗教体験に基づくことが多い。新約聖書にはイエスのメシヤ性が理路整然と証明されているわけではなく、彼の言葉と行動とが物語として書き記されているだけであり、使徒たちが「イエスはキリストである」と証しをするだけである。同様に、統一教会の修練会においては、「原理講義」の後に、通常「主の路程」というタイトルで文鮮明師の生涯に関する講義がなされる。講師は、「文鮮明先生こそメシヤです」と証しするかもしれない。これを聞いて修練生たちは、この人がはたして私の救い主であるかどうかを自分で判断するのである。メシヤを受け入れるプロセスは同時に宗教的回心のプロセスでもあり、そこには理性では説明できない宗教的体験がともなうことが多い。櫻井氏は、宗教的教説のプレゼンテーションや宗教的回心に、学術論文的な合理性を要求しているという点において、本質的な宗教音痴であると言える。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク