書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』117


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第117回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、第113回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、今回は元信者D(男性)の事例の三回目である。Dに関しては櫻井氏自身の記述が長いこともあるが、彼のキャラクターがなかなか濃くて面白いため、私の書評に割く回数も結果的に三回になった。今回は「原理研究会で生き抜く方法」というセクションで彼が展開している論理を分析してみよう。
「統一教会では、何かにつけ、うまくいっていないことは全て蕩減のせいにされ、世界的なレベルでうまくいかないことは全て日本のせいにされる。当事者の責任がどこにもない。○○大の伝道が昨年ふるわなかったのは、Fのときにメンバーが中心者と一体になっていなかったからだと言われた。各人に霊界と一体化することが求められた。個人の努力に霊界が応えてくれない。これは霊界が晴れていないからだとも。」(p.350)

 この部分に対しては、櫻井氏がさらに詳しく、統一原理の論理的欠陥といったような主旨で説明を加えている。少し長くなるが、その部分を引用してみよう。
「原理研究会では、霊界が働くとFの実績が出るといわれる。霊界は一方的に働く。霊界が働くような行いをすることがよいことだとされる。実績が上がったのは霊界が働いたからだ。しかし、実績が上がらないのでは霊界のせいだということにはならず、本人の責任にされる。つまり、手柄は霊界に、責任は本人にという論理である。

 これは矛盾している。霊界の方が現実界に優先しているのであれば、なぜ本人の小さな努力を超えるような強大な霊界の力が誰に対しても同じように働かないのかとDは考えた。おそらく統一教会の論理では、現実界で信仰の条件を立てなければ霊界は動きたくとも動けない、神も先祖もあなたに条件を積ませるために苦難の道に耐えるあなたの姿を見ながら泣いているのだというだろう。ほとんどの信者はこれに納得して、神や先祖の悲しみを知るためにFをやるようになる。Fを一生懸命やっていれば、霊界が働き、実績が出るようになることを実感することこそ信仰なのだという言葉を信じて。」(p.352-3)
「結局のところ、統一教会の論理は循環論法であり、疑問には答えきれていない。霊界の働きには信者の信仰が、神や文鮮明の御旨が成功するためには信者の蕩減条件が十分でなければならないという命題を立てているにもかかわらず、成功のための必要十分条件は明示されない。常に後知恵として失敗を説明するときにのみ、不十分さが問題にされる。成功したとしても手柄は神と真の父母の偉大さに帰されるだけだ。信者側の信仰や努力はいくら積み上げられても、文鮮明の事業計画が失敗に終われば吹き飛んでしまい、マイナスの段階からさらなる積み上げを要求される。」(p.353)

 ここでDや櫻井氏が主張している統一教会の論理の欠陥は、要するに「反証可能性がない」ということだ。この反証可能性という言葉はカール・ポパーが提示したもので、科学と非科学を区別する際の基準として語られることが多い。反証可能性とは、ある仮説が実験や観察によって、反証される可能性があるかどうかである。ポパーは、反証する方法がない仮説は、科学ではないとしている。一般に占いや宗教的言説は科学的でないとされるが、それはある命題に対してどんな結果が出たとしても、外れたとか間違っていたという結論が出ないような構造になっているからである。具体的な例で説明しよう。

 例①:ある占い師が、「あなたの今日の運勢は東の方面で最高で、きっと良いことがありますよ」とAさんに言った。それを信じて東方面に行ったAさんの身には特別なことは何も起こらなかった。帰ってきて占い師に「あなたの占いは外れた。なにも良いことなどなかった」と文句を言った。しかし占い師は、「何もなかったことが良かったのです。もし西の方面に行っていたら大きな災難に遭うはずでした。その災難を避けることができたということが、最高に良かったことなので、私の占いは当たったのです。」と答えた。こう答えれば、占いは外れる可能性はないので、反証可能性がない。当たったのか外れたのかを観察によって判断する客観的な基準がないので、占いは科学的ではない。

 例②:ある自称超能力者が、透視能力の検査を受ける際に、「私の能力を疑う者がいると、うまく能力が働かない」と言った。検査の結果は、彼の透視能力を否定するものであったが、彼は「私は実際に超能力を持っているが、それは信じる心を持った人にしか現れない。私の能力を疑う心をもって検査が行われたので、それが妨げとなって能力が発揮できなかったのだ」と言った。検査の結果が否定的でも、彼の超能力を否定できない論理構造になっているので、彼の主張は反証不可能であり、科学的でない。

 例③:ある宗教指導者が、「迫りくる神の怒りのゆえに、20XX年X月X日に人類を滅亡させる大惨事が起きる。信徒たちはこの世との交わりを避け、世界の終末を防ぐために祈らなければならない。」と予言した。しかし、その日が来ても何も特別なことは起こらなかった。その宗教指導者は信徒たちに、「あなたがたの熱心な祈りにより、神は怒りをしずめられ、人類の滅亡は回避されたのだ」と説明した。これも予言が当たったか外れたかを客観的に判断する基準がないので、このような宗教的言説は科学的ではない。逆のパターンでは、「祈れば願いが叶えられる」と教えられて熱心に祈ったが、願いはかなわなかった。それに対して「祈りが足りなかったから、願いが叶えられなかったのだ」と理由を説明された、ということもあり得る。つまり、どちらに転んでも最初の命題が間違っていることが証明される可能性がない場合には、反証可能性がなく、科学的言説とは言えないのである。

 宗教は科学ではないので、宗教的言説にはこのように反証可能性がないものが多い。統一教会において語られる教えや、指導者たちによるその解釈も、基本的には宗教的言説であるため、科学のように実験や観察によって客観的に正誤が判断できるような性質の命題ではないのである。統一教会の事業が成功すれば、それは「神が共にあるから」「霊界が働いたから」「真の父母様の勝利圏によって」という説明がなされ、逆に失敗すれば「サタンが妨害した」「蕩減が重い」「人間の責任分担の失敗によるものだ」などの説明がなされ、どちらの結果が出ても宗教的言説そのものの正しさが否定されることはないような論理構造になっているのである。このことは、アイリーン・バーカー博士も以下のように述べている。
「『統一教会の成功は、神がわれわれの側におられることを証明している』とか、『統一教会が直面している後退は、神がわれわれの側におられることを証明している。なぜなら、サタンがわれわれに激しく反対しているからである』といったような発言を、社会科学者が裁定することはできない。なぜなら、そうした発言を反証する方法が存在しないからである」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第一章「接近と情報収集」より)。

 しかし、こうした反証不可能性は統一教会の教えに限ったことではなく、多くの宗教の教えに当てはまるものである。キリスト教における神の天地創造、人間の堕落、キリストの十字架による罪の贖罪、ヒンドゥー教における輪廻転生、仏教における因果応報、そして多くの新宗教が説く先祖の因縁や死後の世界などの教えは、実験や観察によってその正誤が客観的に判断できるような性質の命題ではない。だからこそ、それらは科学的言説ではなく宗教的言説であると分類されるのである。しかしこれは、科学的で反証可能な言説にしか価値がないということではなく、人間社会には宗教以外にも正誤を客観的に判断できない価値観、習慣、伝統、イデオロギー、信念、主義主張といったものがあふれておあり、たとえ科学的にその正しさが証明されなかったとしても、一定の役割を果たしているのである。すべてのことに科学性を求めるのは逆にナンセンスである。

 一般に、「あきらめなければ夢は叶う」と信じることは良いことだとされる。しかし、どこまで頑張り続ければ夢が叶うのかを客観的に判断する必要十分条件があらかじめ分かっていることは、実際の人生においてはむしろ少ない。「精一杯努力したのに、夢は叶わなかった」と言う人に、「あなたが途中であきらめたから叶わなかったのだ。もっと頑張っていれば夢は実現した」と言えば、そうした可能性はゼロではないので、これは反証不可能な命題となる。そもそも人は、「あきらめなければ夢は叶う」という信念に対して、科学的であることを求めてはいない。それは生きるための指針であり、信念であり、その正しさは自分の生き方そのものの中で証明されると理解されているのである。それは科学的であるとか、反証可能であるとか、客観的であるとかいうことを超えた次元にある命題なのである。

 元信者Dや櫻井氏は、宗教的言説である統一教会の教えに対して、科学的な反証可能性を要求することによって、その価値を否定していることになる。要するに彼らはカテゴリーを誤っているのである。それでは、統一教会の信者たちはいわゆる「原理の正しさ」というものを、どのようにして判断しているのであろうか。それは自分の実存をかけた神や原理との出会いである。神が存在することや、原理が真理であるということを、自分自身の人生体験として正しいと感じたかどうかである。この点に関してアイリーン・バーカー博士は以下のように述べている。
「しかし、『原理講論』がもっているその真理性のさらなる証明が一つある。それが『作用する』という主張だ。統一神学は、それが経験的に現れると信者たちが信じているという点において、実用的な神学である。それを信じ、それに従うことによって生じる目に見える結果のゆえに、それは真理に違いないと理解するのである。ある程度までそのような証明は、その形態はどうであれ、裏付けになり得る。もしその運動が成功しつつあれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、神は彼らの側におられるということを示している。もし、その運動が激しい敵意と反対に直面しているのであれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、サタンが懸念しているということを示しているのである。もちろん、歴史上には、自らの位置を裏付けるためにそのような論理を用いた多くの宗教が存在してきた。しかし、神の真理とこの世に起こっていることとの関係を認めるいかなる『実践神学』もまた、その反証になると思われる証拠を人々が見いだすであろうというリスクを負っている。多くのムーニーたちが彼らの周囲で起こっているあらゆることを解釈することによって、自らの信仰を強くしてきたということには疑いの余地がない一方、その実践的な神学は運動にとって両刃の剣であることを証明してきた。そのメンバーの多くは、原理が『作用する』ということを信じなくなったか、あるいはそれが作用する方法をもはや歓迎しなくなったがゆえに、脱会した。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第三章「 統一教会の信条」より)。

 つまるところ、統一原理によって自分自身の人生や、自分の身の周りで起こっている様々な現象がうまく説明できると感じているときには人は信仰を保っているのであり、逆にそれらをうまく説明できると感じられなくなってしまったときに、人は信仰を失うのである。そもそも宗教的信仰とはそのようなものだ。Dの場合には、統一原理によって自分自身の人生や身の周りの出来事がうまく説明できるとは最後まで確信することができず、世界観の受け入れ方としては中途半端なままであった。信仰に対するあこがれや兄弟姉妹に対する愛着ははあったものの、彼が本当の信仰を獲得することは最後までなかったのかもしれない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク