書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』82


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第82回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開し、一般的な人間の思考が帰納的であるのに対して、統一教会の学習方法はすべてを演繹的発想によって説明しようとしている点で「極めて特異な学習過程」(p.252)であると主張している。これに関する彼の説明を前回まで二回にわたって批判してきたが、今回はそのまとめである。

 櫻井氏による「統一教会の学習方法」を簡潔にまとめると以下のようになる。①統一教会の学習方法はすべてを演繹的発想によって説明しようとする。受講生はその論証の過程に圧倒されて結論を承認せざるを得なくなる。②堕落論と復帰原理では救済史という目的論により歴史を説明しようとするが、受講生には宗教や歴史に対する学問的知識や、物事を批判的に見る精神が不足しているため、それを否定することができない。③統一教会の教説は演繹的で目的論的なものでありながら、自然科学や社会科学の認識にも通じるかのように語られているため、両者の間に齟齬が生じた場合に、受講生の思考には著しい負担がかかる。

 これらの分析から櫻井氏が導き出す結論は、「受講生たちの対処方法としては、これ以上考えることをやめるのが手っ取り早いやり方だろう」(p.254)という驚くべきものだ。櫻井氏の主張によれば、統一教会への回心は「思考を停止することで、統一教会の教説は討議すべき課題ではなく、事実として受け入れられるべき事柄になっていく」ことによって生じるというのだ。さらに彼は、「じっくり考える思考力も体力もなくなってくる」とか、「もはや自分で判断することはなくなり、委ねるかどうか、ひたすら信仰的であろうとするかどうかだけの問題になる」(p.254)といった状況に受講生たちが追い込まれていくと主張している。要するに、受講生たちの主体的な判断によって信仰を獲得するのではないという姿勢を貫いているのである。これらはすべて、「青春を返せ」裁判で原告たちが主張していることの繰り返しに過ぎない。彼らは自らの宗教的回心に主体的な動機があったことを認めてしまうと、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまうので、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として自らを描写する必要があった。こうした目的に基いて書かれた歪んだ描写を基礎資料としているため、櫻井氏の描く回心は悲壮な雰囲気に満ちているのである。しかし、彼は参与観察を行っていないので、新生トレーニングや実践トレーニングの現場の雰囲気や、受講生が原理を受け入れていく様子を直接観察しているわけではない。すべては教会を訴えている元信者の証言というフィルターを通して結ばれた像なのである。

 一方で、人が伝道され回心していく過程を直接観察したイギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカー博士はまったく違う結論を下している。まず、食事、睡眠時間、疲れなどの修練会の環境が脳の機能を低下させることによって「洗脳」されるのだということは伝統的に主張されてきたが、彼女は自らの参与観察に基づき、修練会の環境はどの点においても普通であり、環境的要因によって脳の機能が低下することはないと結論している。

 こうした「生理的な強制力」の存在を否定したうえで、彼女は「マインドコントロール」が意図しているような、より内面的な強制力が働いているかどうかも検証している。これは統一教会の修練会に参加した人は誰でも、その人の持つ背景、個性、経験などに関わらず、全員が統一教会式の世界の解釈をするように誘導され得るのか、それとも自分の考えに照らして統一教会の世界観を拒絶したり受け入れたりするという、主体的な選択を行うのかという問題だ。彼女は修練会の参加者たちの感想文を基礎データとして、修練会に対する反応は人それぞれであり、非常に多様性があるという事実を明らかにすることにより、内面的な強制力の存在を否定している。要するに統一教会の修練会は、ある人にとっては非常に興味深く魅力的なものであるのに対して、別の人にとっては非常に退屈で受け入れがたいものであり、個人がどう感じるのかを主催者側がコントロールできるわけではないということだ。さらにバーカー博士は「被暗示性」について論じた章の中で、言われたことを何でも受け入れてしまうような説得に弱いタイプの人も、ムーニーにはなりにくいと分析している。したがって、参与観察を伴う社会学的な研究によれば、説得された「受動的な被害者」というのは、回心の実像とは合わないのである。

 それではバーカー博士の研究においては、統一教会の神学の真理性はどのように正当化され、論証されると分析されているのだろうか? この点についてバーカー博士は第3章の「統一教会の信条」において詳しく論じている。彼女が第一に挙げているのは「聖書」であり、原理講義をする際にはその論拠として聖句が引用されることを指摘している。これはキリスト教文化圏であるヨーロッパやアメリカにおいては説得力のある根拠として機能することだろう。しかし、日本においては「聖書がこう言っているから真理だ」という主張はごく一部の人にしか通用しないであろう。

 次にバーカー博士が挙げるのは、「霊界からの証し」であり、これは霊能者や霊媒者が原理や文師のメッセージが正しいことを証しすることを意味する。そうした実例として、アメリカのアーサー・フォードやサー・アンソニー・ブルックなどの名前が挙げられている。さらには、修練会のゲストも夢を見たり啓示を受けたりすることがあるという。こうしたことを根拠に、原理が真理であると確信する人がいてもおかしくはないだろう。次にバーカー博士が挙げるのが科学であり、統一神学は科学と宗教の間にあるギャップに橋渡しをすると主張し、その真理性の証明のために科学に訴えることがあると指摘される。

 こうした議論はある程度の納得がいくものだが、統一教会の信者が「原理は真理である」と認識するメカニズムとして一番腑に落ちたのは、バーカー博士の次の記述であった。
「しかし、『原理講論』がもっているその真理性のさらなる証明が一つある。それが『作用する』という主張だ。統一神学は、それが経験的に現れると信者たちが信じているという点において、実用的な神学である。それを信じ、それに従うことによって生じる目に見える結果のゆえに、それは真理に違いないと理解するのである。ある程度までそのような証明は、その形態はどうであれ、裏付けになり得る。もしその運動が成功しつつあれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、神は彼らの側におられるということを示している。もし、その運動が激しい敵意と反対に直面しているのであれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、サタンが懸念しているということを示しているのである。もちろん、歴史上には、自らの位置を裏付けるためにそのような論理を用いた多くの宗教が存在してきた。しかし、神の真理とこの世に起こっていることとの関係を認めるいかなる『実践神学』もまた、その反証になると思われる証拠を人々が見いだすであろうというリスクを負っている。多くのムーニーたちが彼らの周囲で起こっているあらゆることを解釈することによって、自らの信仰を強くしてきたということには疑いの余地がない一方、その実践的な神学は運動にとって両刃の剣であることを証明してきた。そのメンバーの多くは、原理が『作用する』ということを信じなくなったか、あるいはそれが作用する方法をもはや歓迎しなくなったがゆえに、脱会した。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第3章「統一教会の信条」より)

 バーカー博士のこの記述は、統一原理の学習は単なる理論の習得ではなく、体験学習であるという事実を正確に見抜いているように思われる。宗教的真理というものは座して学ぶだけの理念体系ではなく、それを実践し、全人格をかけて生きるときにその真理性が実感できる「体験的真理」であるということだ。人が伝道される過程においては、いかなる学問的検証よりもこうした生きた体験が回心の決め手となる。統一原理という世界観を自分の「生き方」として採用するかどうかを決定する、実存的な出会いが必要なのであり、単なる知的学習では回心は起こらないのである。一方で、こうした体験は基本的に主観的なものであるため、自分のまわりに起きている出来事が原理によって「説明できる」を感じているときにはその真理性が証明されることになるが、「説明できない」と感じたときには、人はその世界観を捨てることになるのである。

 このように統一原理を受け入れて回心していく過程においては、受講者の主体的な意思が大きな役割を果たしているだが、櫻井氏の記述にはその重要な部分が抜け落ちており、回心の原因をもっぱら伝道する側の意図やテクニックに帰属させている点において片手落ちであると言える。

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