韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ20


 先回は、東満におけるパルチザン部隊と日本の治安部隊が激しく闘争している状況下で、日本側の資料の中に、1935年末ごろから金日成(キム・イルソン)という名前が登場し始めたことを説明しました。彼は東北抗日聯軍に属する100人ほどの「金日成部隊」を率い、すばしこいゲリラ活動を展開したことで次第に名が知られるようになっていきました。彼の起こした代表的な事件が1937年の「普天堡事件」であり、日本側に相当の被害を与えた襲撃作戦でした。普天堡は現在は北朝鮮にあり、北朝鮮では将軍様が最初に偉大な功績を残した場所だということで、聖跡として国立公園に指定され、巨大な金日成の銅像が立っています。

 しかし、『金日成は四人いた』の著者として有名な李命英博士は、この「普天堡事件」を起こしたのは後に北朝鮮の主席となった金日成とは別人であると主張しています。彼の研究によれば、普天堡事件を起こした第六師長・金日成は、本名を金成柱といい、当時36歳で、モスクワ共産大学を卒業したエリートだったのですが、間もなく満州国軍討伐隊に射殺されたというのです。後の北朝鮮首席の金日成は当時25歳で、経歴も異なるので別人物であると主張しています。要するに、このパルチザン活動の中には数名の「金日成」がいて、それぞれ別人だったのだと李命英博士は言っているのです。

 さて、このころの金日成の役職は「第六師長」ですが、やがて出世して「第二方面軍長」になったという記録が残っています。1938年末になると、第一路軍の幹部の多くが脱落し、損害を受けました。それにより金日成は「第二方面軍長」に抜擢されます。このころの第一路軍の幹部名の中に、後の金日成政権の中枢部に名を連ねた人物の名前が散見されるということです。後に金日成が北朝鮮で政権を立てたときに、このころパルチザンで一緒に戦っていた仲間を幹部として登用しており、その名前が記録と一致しているので、少なくともこのパルチザン活動を行っていた部隊の中に後の金日成本人がいて、その部下たちも一緒にいただろうということは、事実だと思われるわけです。さて、金日成とは誰なのかということに関して混乱してきたと思いますので、整理するとこのような表になります。

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 「金日成偽者説」をめぐる論争の中で、一番多くの金日成がいたと主張しているのが李命英博士で、彼は「金日成は四人いた」と言っています。まず、①伝説の金日成将軍の正体は金光瑞であり、後に金擎天と呼ばれた人でした。これは1919年から1920年頃に活躍したかなり年配の人物でした。次に②から④の金日成はパルチザン以降の人物でありますが、もともと第六師長・金日成という人がいて、この人は本名を「金成柱」といい、1937年に満州で死亡しているんだということです。その名前を引き継いだのが③第二方面軍長・金日成だったということです。つまり、有名な名前なので、本人の名前というよりも役職というかコードネームだったのではないかということです。例えば、式守伊之助や木村庄之助、あるいは市川團十郎のように、その名前を引き継いでいたんじゃないかと考えているのです。たとえ金日成が死んでも、誰かがその名前を引き継いで、次の金日成が現れるという具合です。

 第二方面軍長・金日成も実は別人で、この人は1944~45年にソ連で死亡しており、これらパルチザンで活躍した金日成とは全くの別人で、その下で働いていたゲリラの排長(小隊長)であった人が、後に北朝鮮国家主席の金日成になったと李命英博士は言っています。この人の本名は「金聖柱」といい、「金成柱」とは発音は同じだが漢字は異なり、別人物だということです。これが「金日成4人説」です。

 それに対して、「そんなことはない、②~④はすべて同一人物だ」と主張している学者がいます。『金日成』(原著は1988年に出版、日本語訳は1992年に出版)という本を書いている徐大粛という人です。私はこの本も読みましたが、このパルチザンで活躍した金日成と、北朝鮮の国家主席・金日成はすべて同一人物であると彼は主張しています。でも、この人もさすがに「伝説の金日成将軍」が北朝鮮の国家主席と同一人物だとは言っていません。時代が違いすぎますので。

 ところが北朝鮮ではこの①から④のすべてが金日成であり、われらの偉大な首領様であると教えているのです。ですから、金日成4人説から1人説までかなりの差があるわけですが、徐大粛の著書『金日成』のなかに、彼の詳しい経歴が書いてありますので、これを紹介してみたいと思います。

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 後に北朝鮮の国家主席となった金日成は、1912年4月15日に平壌の万景台という所で生まれております。父の名前は金亨稷(김형직)といい、貧しい農民だったと言われています。母の名前は康盤石(강반석)といい、なんとクリスチャンだったのです。「盤石」という言葉はキリストを象徴する岩という意味で原理講論にも出てきますが、彼女はキリスト教の牧師の娘であり、その名前は使徒「ペテロ(岩)」の名にちなんでつけられたということです。金日成の母親がクリスチャンというのは皮肉な話ですが、彼女は後に北朝鮮では「朝鮮の母」として神格化され、「革命家」であったことにされています。

 金日成の本名は金成柱と言います。「聖柱」なのか「成柱」なのか、諸説あるのですが、徐大粛氏は「成柱」が金日成の本名だとしています。金日成には弟が二人いて、名前を哲柱と英柱と言いました。この英柱の方は「金日成の実弟」ということで後に北朝鮮の幹部になっています。韓国人は兄弟の名前に同じ漢字を用いることが多いので、成柱、哲柱、英柱が兄弟であることは間違いないのではないかと思います。

 1920年に、金成柱は両親と共に満州に渡り小学校に通うことになります。ですから、金日成は中国語が堪能だったということです。1926年に父親が死亡します。金成柱が14歳のときでした。その後は母親が女手一つで兄弟を育てることになります。1929年、金成柱が中学2年のときに、共産主義の非合法活動に関わったかどで逮捕され、中学を退学し、1930年春に釈放されます。これが金日成の最終学歴となります。彼は大学を出ていないどころか、中学中退という学歴なのです。すなわち、彼はエリートでもインテリでもありませんでした。彼は武装したゲリラだったのです。金日成の経歴の特徴は、ゲリラ活動の兵士としてかなり幼いころから活動していたことにあります。

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 金日成の思想形成にもっとも大きな影響を与えた人物が魏拯民(ぎ・じょうみん)という人です。彼は1935年~41年にかけて金日成の直接の上官であり同志であった中国人です。1932年に中国共産党の指令で満州へ派遣され、1934年には中国共産党東満州特別委員会の書記となりました。金日成は魏拯民と同じ部隊でともに闘い、彼の影響を受けて共産主義思想を身近で教わったと言われています。ですから彼は、中国共産党の指導するゲリラ活動の一兵士として、闘争の中で共産主義思想を体得していったのです。モスクワ大学で学んだとか、中国の大学に留学したとか、そういうインテリではなくて、若い頃から馬に乗って銃を撃ち、武装闘争をしながら、その中で実践的共産主義を学んだ、いわば「叩き上げ」が金日成であったということになります。

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