第一章 接近と情報収集(9)
事実と価値観と科学
私は、必ずしも彼らが正しいと同意しなくても、他の人々の視点からの物事の見方を学ぶことは完全に可能だと信じている。同時に、私たちがどのような判断をするにせよ、私たちが判断しているあらゆるものに対する正確な理解に基づいていればいるほど、それらは「より良い」判断であるだろうということは、自明の真理であるように思える。しかしながら、社会学者がどっちつかずの態度でいるのは不道徳だと考える人々がいるのである。ムーニーとその敵対者たちの両方が、私がどちら側の立場にも賛同しなかったある論文について激しく文句を言った。ある積極的な反カルト主義運動家は、私が書いた論文に激怒し、問題となっている雑誌の編集者に電話を掛け、これがすべて学問的研究の結果だということは疑いないが、それは非常にバランスを保っていて客観的なので、そのバランスを是正する権利を要求する、と不満を訴えたのである(注20)。私のことを信頼できないと何人かの父母たちに語ったある聖職者に対して、私のいったいどこが間違っているのか言うように迫ったとき、彼は「おお、あなたは事実を正しく把握したけれども、あなたが態度を明確にして、はっきりと彼らに反対しなければ、まるで駄目だ――人々は何でもありだという考えに陥ってしまうだろう」と答えた。他方、あるムーニーの不満は、私の記事は「いまのところ十分に正確だが、残念なことに、退屈だ」というようなものであった。生きた真理を観察する機会を与えられたときに、なぜ私が恍惚とした歓喜の叫びをもって屋上からそれを宣言したくならないのか、と尋ねる傾向が彼らにはあった。
私は双方に十分な数のキャンペーンを行なう人々がいると思う。ムーニーは悪であり、撲滅されるべきだと主張しながら論争を巻き起こしたい人々は、反カルトセンターに行くことができ、統一教会は世界にとって唯一の正義の希望だと主張しながら論争を巻き起こしたい人々は、ムーニー・センターに行くことができる。それは、私が原則的にキャンペーンに反対しているということではない(私は、運動と幾人かのメンバーの両親との間を積極的に仲裁することによって「関与しない研究者」としての私の役割をしばしば危険にさらしたことを既に認めた)。しかし、私は価値判断を下すことは社会科学から離れた仕事であるべきだと信じているのである。もちろん、事実と価値の分離は、言うは易く行うは難しの一つの理想基準である――そして人は明らかに、自分の研究が実践的な妥当性をもつことを望むのである(注21)。しかし、現象を記述し説明することに従事しながら、既に厄介で複雑な現実を、自分たちの個人的信条や価値観を付加して色づけしたり、歪曲したり、混乱させたり、あるいは過度に単純化させることよりもむしろ、彼らの研究対象と一致する情報を伝達する限りにおいてのみ、社会科学者たちは有用である、というのが私の信念なのである。その情報が「純粋」であればあるほど、われわれすべてが(市民として)自らの価値観を発揮できるようにするうえで、より役に立つのである(注22)。
もし社会科学者たちが道徳的判断において特別な専門知識を持っていないのであれば、彼らは何らかの認識論的専門知識を主張することができるだろうか? すなわち、彼らは社会現象について「知る」ための、特別で優れた方法を持ち得るのだろうか? もちろん彼らは予言を行う神秘的能力など持っていないし、社会学者の研究の大部分は単に骨の折れる仕事に過ぎない。しかしながら彼らは、自分たちの研究分野に関する一連の蓄積された理論や基礎知識を利用できること、特定の技術に精通していること、そして特定の落とし穴に気付いていること、などの利点を持っているのである。すべての科学者たちと同様に、彼らは、自分たちの専門知識が経験的現実――すなわち五感を通じて観察し得る現実――に制限されているということを認識しなければならない。「統一教会の成功は、神がわれわれの側におられることを証明している」とか、「統一教会が直面している後退は、神がわれわれの側におられることを証明している。なぜなら、サタンがわれわれに激しく反対しているからである」といったような発言を、社会科学者が裁定することはできない。なぜなら、そうして発言を反証する方法が存在しないからである(注23)。(もちろん、人々がそのような議論を利用するという事実は、社会学者の「データ」の一部である。)
これは、私の研究が何人かのムーニーたちと、文が本当に反キリストだと確信している福音主義のクリスチャンたちの双方を苛立たせてきた、もう一つの方法に私を導くのである。神(あるいはサタン)がその運動にムーニーを導いた、あるいは召命したというのが真の説明であるとき、誰かが統一教会に改宗する理由をどのようにして説明することができるだろうか、と私は問い続けてきた。もちろん、他人の人生における神(あるいはサタン)の直接的干渉に関する主張が真実であるか虚偽であるかを、誰かが判断することは不可能である。そもそも超自然的行動はいかなる科学的知力の範囲をも超えている。しかし私は、神(あるいは何らかの超自然的存在)が本当に干渉したか否かについては不可知でいなければならないと主張したが、自分の研究を擁護するために私は、もし神(あるいはサタン)が干渉「している」のであれば、それを観察することは通常可能であり、神はご自身の干渉を履行するために、二次的原因を相当に利用したり、変わり得るものに干渉したりするであろうと思われる、と論じてきた。
言い換えれば、何らかの社会的経路を通過することなしに、人々が突然にムーニーになるという話は聞かないのである。最も予想外の啓示――例えば、メシヤが、文鮮明という人物として地上にいるということ――でさえ、より直接的でない経路を通じての、その考えに対するなんらかの事前の導入なしに起こることはない(あるいは、少なくとも、そのように解釈されることはない)のである。世俗的要素、例えば事前に形成された統一教会のようなものに影響を受けやすい傾向や、それを促進する社会からの「押し」、あるいは布教活動を行うムーニーからの「引き」は、ムーニーの成り立ちに関わるプロセスに不可欠な部分であるように見える。――そしてこれらは、観察によって立証できる調査をすることができる要素なのである。
(注20)言及された論文は、私の「選択の自由? 統一教会およびその他の新宗教運動に関するいくつかの考察」、『聖職者評論』第一部、1980年10月号、第二部、11月号である。また私の「悪魔とスープをすするl」も参照。
(注21)マックス・ウエーバー『社会科学の方法論』編・訳、エドワード・A・シルスとヘンリーA・フィンチ、ニューヨーク、フリー・プレス、1949年を、価値中立性と価値妥当性の区別のために参照。 (注22)アイリーン・バーカー「事実と価値と社会科学」、『科学と絶対価値』第三回科学の統一に関する科学者会議の議事録、ニューヨーク、ICF、1975年に収録、がこの点について詳述している。
(注23)カール・ポパー『推測と反駁――科学的知識の発展』第二版、ロンドン、ルートレッジ&ケイガン・ポール、1965年、第一章を参照。 (注24)アイリーン・バーカー「置き換えの限界:互いに向き合う二つの学問領域」、D・マーティンその他(編)『社会学と神学:提携と対立』ブライトン、ハーベスター・プレス、1980年に収録を、社会科学と宗教的信条との関係についての、より本格的な議論のために参照。