韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ19


 先回まで共産主義者たちによる韓国独立運動の歴史を述べてきました。李東輝、呂運亨、朴憲永などのリーダーがいましたが、彼らの運動は日本の当局による激しい取り締まりと、内部抗争により、韓国の国内でも、ソ連でも、中国でも衰退してしまい、民族の独立のために力を発揮することはありませんでした。実は共産主義者の中で結果的に最後まで生き残ったのが金日成だったということになるのですが、彼の話に入る前に、東満におけるパルチザンについて少し説明をします。

 韓国人の共産主義者が中共党に吸収されることになり、中共磐石県委に加入すると、その勢力は一挙に強化されました。この合流を組織指導したのは、中共党中央から派遣された韓国人党員である呉成崙(오성륜)という人です。この中共磐石県委の主力は韓国人であり、党幹部には呉成崙らの韓国人がいました。この人の別名は「全光」と言って、もともと金日成の上官だった人です。この呉成崙は、初めは義烈団に属しており、上海で田中義一狙撃事件の犯人の1人となり、捕まったのですが脱獄します。後にソ連を訪れて、共産党に入党して各地で活動し、東北抗日聯軍の軍需処長を務め、若き日の金日成の上官だったということが歴史的事実として分かっています。しかし、北朝鮮の歴史ではこうしたことは一切触れられません。なぜかと言えば、「偉大な首領様」が誰かの部下だったということが、あり得ないことであり、許されないことだからです。北朝鮮では、金日成主席は若い頃から独立したトップリーダーだったことになっています。

 東満におけるパルチザンの背景として、反満抗日運動と「共匪」について説明します。1932年に満州国の建国が宣言されますと、「反満抗日」の旗を掲げた武装集団が全満に荒れ狂いました。これは主に中国人による反乱ですね。その数は20万人とも36万人とも算定されました。日満側(日本の支配下にある満州国の当局のこと)はこれらの団体を押しなべて「匪賊(ひぞく)」と総称しました。匪賊とは通常、「集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す言葉です。その中でも共産主義を信奉する思想的な匪賊は共産主義の匪賊という意味で「共匪(きょうひ)」と略称されました。

 この「共匪」という言葉は、当初は朝鮮共産党の各派に属する赤衛隊、突撃隊、遊撃隊などを指していましたが、韓人共産主義者が中国共産党に吸収されて、前記の部隊が「東北人民革命軍」に編入され、ついで「東北抗日連合軍」に編入されてからは、これらの部隊が「共匪」と呼ばれ、討伐の対象となりました。

 それではこの「東北人民革命軍」とはどんな組織だったのでしょうか? これはあくまでも中国共産党の党軍であり、韓国の独立を志向した武装集団ではありませんでした。軍の行動綱領には「中華祖国の擁護」とか「失地東北の回復」という言葉はありましたが、韓国に関するものは一字も入っていませんでした。しかしその骨幹は韓国人であり、特に第1~第4軍、および第7軍の兵員はほとんど韓国人でした。ただし、その組織の頂点の地位は中国人が握っていました。その活動の実態は、日満との戦いよりも、生存のための略奪に明け暮れるというものでした。これは正式な国家の軍隊ではないので、自分たちで物資の調達をしなければならなかったのです。日満側は治安のために「共匪」の討伐に当たり、東北人民革命軍と治安部隊との間に死闘が演ぜられたということです。

 このように、東満におけるパルチザン部隊と日本の治安部隊が激しく闘争している状況下で、日本側の資料の中に、金日成(キム・イルソン)という名前が登場しはじめるのが1935年末ごろのことです。国内では早くからキム・イルソンという韓国語読みで、日本の官憲の間ではキン・ニッセイとかキン・イッセイという日本語読みで、神出鬼没ぶりを知られた人物がいました。その人物の漢字名が、「金日成」として日本側資料に現れたのが1935年末だったということです。東北人民革命軍の第2・第5混成部隊組織票の中に政治委員と100名ほどの部隊の責任者として、「金日成」の名前が出てくるのです。北朝鮮の金日成は1912年生まれなので、1935年には23歳になっています。これは遊撃隊の隊長ぐらいになっていてもおかしくはない年齢です。

 この「東北人民革命軍」は、「東北抗日聯軍」に発展していきます。これは、満州に展開した中国共産党指導下の抗日パルチザン組織のことです。パルチザンとは非正規の軍事活動を行なう遊撃隊のことで、ゲリラの類義語です。それまで満州で活動していた共産党系の朝鮮人・中国人のパルチザン部隊「東北人民革命軍」が門戸を広げ、右派抗日武装団も受け入れて、1936年から再編成されていきました。「右派」も受け入れたということですから、その中には民族主義者も入っていたということです。中国共産党が国民政府に「第二次国共合作」を呼びかけた結果、共産主義者と民族主義者が一緒になって日本と戦うようになったのですが、実権は共産党が握っていました。ですから、名前は「抗日聯軍」であっても、実質は共産党軍でした。その抗日聯軍の骨幹を形成していた幹部のほとんどは韓国人でした。しかし、抗日聯軍の組織条例は中国共産党の目的そのものであり、韓国の解放とか光復については一言も触れていません。これは、屈辱的な条件で中国共産党の下に入りながらも、心の中では韓国独立を目指していた韓国人がたくさんいたことを意味しています。

 このころに、「金日成師長」が日本側の資料の中に登場します。1936年ごろから、東北抗日聯軍の第二軍では、「金日成部隊」と呼ばれる100人ほどの部隊を基幹として、第三師を編成していました。そこに「金日成師長」という名前が登場するのです。これは日本軍が敵の情報を調べて作成した、日本側の資料が残っているという意味です。第一軍と第二軍が統合されて第一路軍が編成され、金日成は第六師長となったと記録されています。この「第六師長・金日成」が、日本側の記録では初出となります。西間島の北部で、金日成が率いた部隊がすばしこいゲリラ活動を展開したという記録が残っています。その目標の選定と戦闘ぶりが非常に積極的で、金日成の名は日満軍の注目を集めると同時に、韓国内の新聞でも報道されました。韓国人はキム・イルソン将軍の健在を知って喜んだと言われています。

 もともと、「伝説の金日成将軍」というのは、このときよりもはるか前、1919年から20年ごろに活躍したという伝説があったのですが、それが1936年になっても、「ああ、まだあの金日成将軍が生きて闘争を継続しているのだ」と、多くの韓国人が信じたのだということです。しかし、その「初代・金日成」は、このときにはとっくに死んでいた可能性が高いのです。

 こうした中で、「普天堡(보천보)事件」が1937年に起こります。1937年6月4日午後10時頃、満州国境沿いの咸鏡南道「普天堡」を、金日成が率いたとされる共産主義者武装集団が襲撃した事件を、「普天堡事件」と言います。この武装集団は、駐在所を襲撃して銃器と弾薬を奪い、他に試験場、営林署、森林保護区、消防署を襲撃しました。これは日本側にとっては青天の霹靂でした。この襲撃隊はビラを撒いて撤退しました。そのビラには襲撃目的が書いてあったのですが、「日帝を追出して独立し、二千三百万民衆のための大衆政府を樹てるため」と説明しており、末尾に「東北抗日連軍第六師北朝鮮遠征隊金日成」の名が書いてありました。すなわち、ビラに「金日成」という名前が書いてあったので、これを日本側が資料として押収して記録に残しているということです。

 普天堡事件の翌日の6月5日、日本の警察が追撃を開始したところ、金日成部隊は引き返し交戦に至り、警官隊は死者7名・負傷者14名を出しました。これらの事件により、金日成の名が朝鮮領内で報道され、日本側官憲もこの事件を重要視して賞金が賭けられたたことから、金日成の名は知られるようになりました。

普天堡の金日成像

普天堡戦闘の歴史的な勝利を記念して普天堡に建てられた金日成大元帥の銅像

 さて、この「普天堡」という場所は、現在は北朝鮮にあります。現在、北朝鮮では将軍様が最初に偉大な功績を残したところだということで、聖跡として国立公園に指定され、巨大な金日成の銅像が立っています。

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