書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』56


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第56回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は、統一教会信者の特徴について以下のように述べている。
「統一教会信者は、入信前に特別な性向を有していたり、特定の社会環境にあったりしたものではないが、回心して信仰生活を継続するようになると独特の思考パターンや行動様式を示すようになる。入信後、信者達がそれまでの自己と社会の認識や生活様式を一変させるというところにこそ統一教会信者の特徴がある。」(p.203)

これはあまりにも大きくて漠然とした特徴であって、はたして統一教会に固有の特徴なのか、それとも宗教一般の特徴なのか、あるいは団体やグループ一般に当てはまる特徴なのか分からないくらいである。人はあるグループに所属するようになると、そのグループに適応するために思考パターンや行動様式を変化させるものである。たとえば高校から大学へ進学してしばらくすれば大学生らしくなっていくだろうし、就職すれば社会人らしくなっていく。特定の業界の人間になれば、その業界の思考パターンや行動様式を獲得して人は変化していく。特定の企業には入れば、その会社の社風に染まっていくだろう。そうしたことは何も統一教会に限ったことではない。そして数多くある団体やグループの中でも、宗教団体は個人の根源的なアイデンティティーに働きかけるものであるために、変化の度合いが大きいという特徴がある。伝統的宗教にせよ、新宗教にせよ、「回心」と呼ばれる体験をした人は必ずといってよいほど自分自身や世界に対する認識が一変したという証言をするものである。櫻井氏の言っている内容は、統一教会の特徴というよりは、宗教的回心を体験した人一般に当てはまる特徴であると言える。

統一教会に入信すると自己と社会の認識や生活様式を一変させるという特徴を根拠に、櫻井氏は信者の性格は「教え込まれやすい人」(p.203)であると主張している。しかし、これは入信の前後でその人の人格があまりに劇的に変化したように見えるので、「洗脳されたに違いない」と主張してきた古典的な議論と大差ない論法である。この入信前後の変化について、アイリーン・バーカー博士は次のように述べている。
「回心のもたらす変化は単に『統一原理』を受け入れることだけにとどまらない。われわれはしばしば、行動様式、態度、全般的な世界観に極めて大きな変化をもたらすという話を聞く。『ジョナサンはもはやかつてと同じ人物ではない。以前の彼なら決してあのようなことをしないだろう。彼は完全に認識不能な人格に変わってしまった。もはやジョナサンではなくなっている』ということが分かるかも知れない。・・・しかし人生において著しい変化を遂げる人はたくさんいる。そのような変化を記述することが、『どうしてその変化が起こったのか?』という疑問を誘発するのはもっともだが、しかし変化の『記述』は、それ自体では変化の『説明』にはならない。」
「『洗脳以外の説明は不可能である』という主張を正当化するために、変化の程度だけではなく、その変化が起こった速度が使われることがときどきある。突然で劇的な回心の話は歴史にあふれており、聖パウロの体験はその中でも最も広く知られている話の一つである。北米や欧州における福音派の伝道集会は、突然の回心を体験した何千人もの『新生した』クリスチャンを生み出している。その回心の際に、イエスを自分たちの生活に受け入れ、それ以後生活態度や生活方式を劇的に変化させたと彼らは主張している。回心が突然起きたことが、強制的な技術が使われたに違いないと示唆しているというのなら、『全ての』突然の回心は洗脳の結果だとみなさなければならないであろう。しかし、ムーニーが洗脳されていると主張する人々の中で、そのよう立場を受け入れる者は、たとえいたとしてもごくわずかであろう。(事実、彼ら自身も多くは新生したクリスチャンなのである)。」(「ムーニーの成り立ち」第5章 選択か洗脳か?より)

また櫻井氏は、統一教会信者の社会的属性として、「教団活動にすべてを打ち込める環境の人が信者になっているということである。極端に貧しい人や豊かな人、時間的余裕が全くない人や余生を送っているだけの人、身体能力や学習能力に極めて秀でている人やハンディを負っている人が信者になることは稀である。社会学的にいえば、中間層が厚い社会ほど統一教会信者の候補者が多いということになる」(p.203)と述べている。

これはアイリーン・バーカー博士によるイギリスのムーニーの研究で明らかにされた事実と同じである。イギリスのムーニーには上流階級の出身者はおらず、ムーニーの出身階級は中産階級の中と下、労働者階級の上と中に集中しているという。つまり、階級の最上層にも最下層にもムーニーになりそうな人はいなく、全体の中間あたりの階級の人々がムーニーになるということだ。しかしこれは、「どんな人が統一教会信者になるのか」という候補者の絞り込みに過ぎず、その中で統一教会の信者になる人とならない人がいる理由については説明していない。この重要なポイントに関して、櫻井氏は極めて乱暴な議論を展開している。
「これは、統一教会形成史において戦略的な人材調達の手法について述べた通り、青年や一般市民が統一教会を選んで信者になったのではなく、統一教会が教団に欲しい人材を信者にしたのだ。そして、統一教会の布教戦略に応じやすい人達が信者となった。」(p.203~204)

櫻井氏は、統一教会がある一定の階層や年齢の人をターゲットにして信者を獲得したのであり、伝道された信者には主体的な動機などなかったのだと言わんばかりだが、はたしてそのようなことが本当にあり得るのだろうか? ある教団が「こういう信徒が欲しい」と願って、戦略を立てて伝道すれば、伝道される側には主体的な動機や要因がなくても入信するのだろうか? そんな一方的な話ではないはずである。人がある教団に入るか入らないかには「相性」というものが作用しており、伝道される側も入るべき教団を「選択」しているのである。櫻井氏は、人が統一教会に伝道されるときの力学を、「統一教会が伝道対象者を引っ張って信者にする」という極めて一方的でシンプルなものとして描いているが、実際にはそれほど単純なものではないだろう。

アイリーン・バーカー博士は、人がムーニーになるときには4つの変数が作用していると分析している。それは(1)伝道される人が持っている個人の傾向、(2)彼のこれまでの人生における経験と社会への期待、(3)統一教会の魅力、(4)決断を下すに至る際の周囲の環境、の4つである。つまり、(1)ある特定の性格や傾向を持った個人が、(2)これまで歩んできた人生と、(3)統一教会が提示している生き方を比較して、(4)修練会という環境の下で決断を下すということである。この4つの変数が総合的に働いた結果として、人はムーニーになるという決断を下すのだとバーカー博士は分析した。分かりやすく言えば、(1)もともと宗教的な傾向を持った個人が、(2)これまでの人生や将来に対して希望を感じられず(プッシュ)、(3)統一教会の提示する世界観に魅力を感じて(プル)、(4)修練会という精神的に高まった環境の下で、ムーニーになる決断を下すということである。この4つのどれ一つが欠けてもムーニーになることはなく、それがすべて揃う確率は低いため、修練会に参加しても最終的に信者にならずに脱落していく人は9割以上になるのだという。

それでは、信者になる1割以下の人と、脱落してく9割の人はどこが違うのであろうか? それは統一教会の提示するものに対する「感受性」をもっているか否かの違いであるとバーカー博士は言う。「被暗示性」(教え込まれやすさ)が基本的に他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向のことであり、何でも受け入れてしまうような受動的で説得に弱い性格であるのに対して、「感受性」は統一教会が提供するものに対して積極的に反応するような性質のことであり、その個人がもともと持っているセンサーのような性質だということになる。こうしたセンサーやアンテナが発達している人は統一教会の教えや修練会に積極的に反応するけれども、発達していない人は反応しないので入教しないのである。統一教会に反応する「感受性」の内容は、結論だけを列挙すれば以下のようになる。

ムーニーになりそうな人:①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。

このように、統一教会が伝道対象者を引っ張れば信者になるというようなものではなく、引っ張られる側に統一教会を受けれいる素養がなければ信者にはならないのだということを、櫻井氏はまったく考慮していない。これは、それを認めてしまうと信者になった人にも原因があったということになり、入信に対する「自己責任」という問題が発生してしまうので、敢えて避けて通っているものと推察される。

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