櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第134回目である。
「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」
元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の5回目である。前回は慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)の中で紹介されている「幸せの因子」に基づき、信仰を持つことによってなぜ幸福感がアップするのかを解説した。その結果、統一教会における信仰のあり方が人の幸福感を増す多くの因子と関係していることが分かった。したがって、Iの信仰が彼女の幸福感を増大させていたのであり、それが彼女の信仰の動機となっていたという結論を導いた。
しかし、これは宗教一般に広く当てはまることであり、統一教会固有の信仰の喜びに絞り込まれたものではないし、Iがなぜそれほど高額の献金をしたのかについては十分に説明しているとは言い難い。そこで今回は、統一教会信者が持つ固有の特徴について研究したアイリーン・バーカー博士の『ムーニーの成り立ち」に基づいて、さらなる分析を行うことにする。
バーカー博士によると、ムーニーになりそうな人は以下のような特徴を持っていた:①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。
一方、以下のような特徴を持つ人はムーニーになりそうもないという:①宗教問題や社会問題に関心がない人、②神が存在するという考えを全面的に否定する人、③聖書が神の啓示であることを否定する人、④特定の信仰や世俗的なイデオロギーを堅く信奉している人、④すでに人生に明確な目的を持っている人、⑤物質的な成功を収めることに関心のある人、⑥自分自身の内的意識に集中するために世俗的な追求から身を引くことに関心のある人、⑦幸福な結婚をしているか、ボーイフレンドやガールフレンドとの安定した満足な関係がある人。
バーカー博士は著書の中で、統一教会の信仰がムーニーたちに与える満足感について、以下のように説明している。
「それは日々の生活の中心に神が存在する宗教的共同体を提供する。神は、各個人が個人的な関係を持つことができる生きた存在である。それは各個人が愛なる神の慰めを感じることができる共同体であるだけでなく、各個人に神を慰める機会を与えている共同体でもある。それは会員たちに温かみや愛情を与えるだけでなく、他の人々のために愛し犠牲になるチャンスをも与える、愛と思いやりに満ちた環境を提供する。・・・
統一教会は新会員候補に、世界の状態について心配し、高い道徳水準を受け入れてそれに従って生き、神の天国を地上に復帰することに献身している、同じ志を持ったファミリーの一員となるチャンスを提供する。それは「帰属」する機会を提供する。それは価値あることを『行う』機会を提供し、それによって価値ある『存在』となる機会を提供するのである。
これは、『何か』に対するうずくような真空を経験している人々の一部にとっては、極めて興奮させる内容である。・・・奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人々。世界中のあらゆるものが正しく『あり得る』という信念を、子供の頃に幻想を打ち砕かれてひねくれてしまった友達よりも長く持ち続け、彼らと共通点を見つけることが難しい人々。宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第10章 結論より)
バーカー博士の研究したムーニーたちは主として青年であったので、壮婦であり未亡人であったIには直接当てはまらない属性もある。しかし、年齢や婚姻状態によって大きく変化する属性を除けば、Iもまた統一教会の信仰を受け入れる基本的な素養を備えていたと言ってよいであろう。
バーカー博士の研究対象の中で、Iの立場に近いのが当時のイギリスではまだ初期の段階であった「ホームチャーチ会員」である。それに関する記述を拾ってみると:
「ホームチャーチ会員がいるということは、統一教会がフルタイムのムーニーの出身階級よりも、もっと幅広い顧客層にアピールできるということを示唆している。だがそれは、若い未婚のムーニーだけが捧げる覚悟ができている、絶対的献身と犠牲的なライフスタイルを要求しない限りにおいて成功しているのである。そうした生活はある面で『普通の』教会員というよりも、修道士、尼僧、あるいは神父に対して期待されるような献身の基準なのである。にもかかわらず、ホームチャーチ会員がしばしば与える印象は、自分たちは孤独で満足感の得られない生活を送ってきたし、おそらくいまなお送っているというものであった。彼らは関わりたいし、支援したくて仕方がないのである。実際、最もよく聞かれる不満の一つは、運動が自分たちを十分に用いてくれないということであった。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第9章 感受性より)
これらの記述から、Iが高額の献金をした動機が浮かび上がってくる。もともと統一教会に入会するような人は、奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人、理想主義的で世の中のあらゆるものが正しくあり得るという信念を持った人、高い道徳水準に従って生きる共同体への「帰属意識」を持ちたいと思っている人、価値あることを行い、それによって価値ある存在となることを願っているような人である。青年の場合には、自分自身の人生そのものを捧げ、禁欲生活を送り、一切の所有物を持たずに、朝から晩まで献身的に活動に没頭することによって、その欲求を満たすことができる。しかし、ホームチャーチのメンバーやIのような壮婦は、それと同じ生活をすることができないので、欲求不満に陥るのである。「関わりたいし、支援したくて仕方がない」のにもかかわらず、その道を与えてくれないとすれば、それは彼らの宗教的欲求に応えていないということだ。
内心では自分自身の全生活を捧げて、神のために献身的に働きたいにもかかわらず、事情によってそれができない人がなし得る教会のための貢献とは何だろうか? それ以外のやり方で、自分が持っている物を捧げることである。Iの場合には多くの財産を持っていたので、自分がこの共同体のために、そして神の摂理のためになし得る貢献が何であろうかと真剣に考えたとき、それはできるだけ多くの財産を神に捧げることだという結論にならざるを得なかったと思われる。そして献金をする度に霊の親、カウンセラー、そして責任者から褒められることにより、それが喜びとなり、自分は価値あることを「行い」、それを通して価値ある「存在」となっているという実感を高めていったのである。
櫻井氏はIが資産家であるがゆえに統一教会の若手女性信者による接遇を受けながら、ろくに伝道活動もせずにイベントに出かける程度の「微温的な状況」の中で信仰生活を送ってきたと批判的に記述しているが、信仰の表現の仕方は人それぞれであり、IはIなりに自分のできる精一杯の貢献をすることを通して宗教的欲求を充足させていたと言える。
それではなぜ、Iは統一教会の信仰を棄てたのであろうか? それは一言でいえば、帰属すべき「共同体」の相克が生じたからである。Iは個人としては統一教会という信仰共同体に帰属していることに満足し、それに貢献することに喜びを感じ、教会の人間関係も良好で感謝の思いを持っていた。しかしIは教会に貢献したいと思うあまり、本人名義の預金以外に、子供や夫の兄弟の名義、あるいは積み立てや保険等の取り崩しを、子供たちや親族に内緒で行っていたのである。本人の動機としては子供たち、孫たちのためにと思ってやってきたことが、肝心の子供たちや孫たちから感謝されるどころか、逆に非難されるという現実に直面したとき、統一教会という信仰共同体と、子供や孫という血縁共同体のどちらを選ぶのかという二者択一を迫られたのである。Iが信仰を持つようになった元々の動機は子供や孫のためであったから、それらを切って捨てて信仰の道を選ぶことはIにはできなかった。結果として、信仰共同体よりも血縁共同体の方を選択したので、Iは信仰を棄てたのである。これは統一教会の教理が間違っているとかいないとか、統一教会の信仰の善悪や是非の問題というよりも、価値観の異なる二つの共同体のどちらに帰属するかに関する、個人の選択の問題であったと言えるだろう。