韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ07


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 次にアメリカでの独立運動を見ていきます。アメリカにおける独立運動の草分け的存在が徐載弼という人です。彼は1864年生まれですから、李承晩よりも11歳年上です。彼は幼い時から金玉均と親交があり、開化派の思想に傾倒するようになります。1883年に日本へ留学し、慶應義塾で日本語を学んでいます。そして1884年に金玉均と共に帰国し、その直後に「甲申政変」というクーデターを起こします。これは韓国の歴史では非常に有名な事件です。この金玉均のクーデターは失敗し、徐載弼は日本へ亡命しました。さらに彼はアメリカに移住し、キリスト教に入信し、コロンビア医科大学夜間部に進学します。そして、在学中にアメリカの市民権を得て1893年に卒業します。

 彼はクーデター失敗により韓国を離れ、アメリカに移住していたため、韓国人としては先駆けてアメリカで基盤を作った人になりました。彼は1895年に帰国して「独立協会」を組織し、独立新聞の発刊にも尽力しました。このころ李承晩がこの運動に参加しています。徐載弼は李承晩より11歳年上ですから、彼が起こした運動に若き李承晩が加わってきたという状況です。この「独立協会」とは何かといえば、李氏朝鮮時代の開化派の運動団体のことで、朝鮮における主制導入を目指しました。当時の朝鮮国王は専制的な昔ながらの王権だったのですが、日本のモデルに従って、近代化して立憲君主制にしようと徐載弼は主張したわけです。ところが当時の国王であった高宗と保守勢力は、絶対王政を維持しようとして「独立協会」を弾圧しました。その結果、1898年に皇帝勅令によって「独立協会」は制解散となります。徐載弼の運動は、皇帝によって潰されたわけです。

 徐載弼は再びアメリカに亡命し、フィラデルフィアで医業に従事する傍ら「大韓僑民会」を組織するようになります。1910年に日本による朝鮮の併合がなると、彼はアメリカに基盤を持っていたので、活動家をアメリカに呼び寄せて援しました。そして1919年の三・一独立運動をきっかけに独立運動を再開し、アメリカ国内に韓国人団体を結成してロビー活動を積極的に行いました。

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 徐載弼がアメリカに呼び寄せた優秀な人材の一人が安昌浩でした。彼は李承晩と共に「独立運動の双璧」と言われた人物です。彼は李承晩より3歳年下だったんですが、非常に有能なクリスチャンでした。彼は朝鮮の平安南道に生まれ、キリスト教徒になります。彼は独立協会が解散させられたとき、巧みに逃れて渡米し、徐載弼の指導でサンフランシスコに「共立協会」を設立します。それを「大韓人国民会」に発展させ、安昌浩は「運動の巨頭」と仰がれるようになります。彼は組織づくりの天才と言われ、独立運動の展開に大きく貢献した人でした。やがて三・一独立運動が起こり、上海臨時政府が成立すると、安昌浩は運動の場を上海に求めるようになり、アメリカから上海に移ります。

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 こうしたアメリカにおける運動の最終段階で登場したのが李承晩だったのです。ここに移っている写真はすべて李承晩です。一番左は1910年にプリンストン大学で学位を受けたときの写真です。真ん中の写真で一緒に移っている女性は奥さんで、フランチェスカ・ドナーというオーストリア国籍の女性です。彼はアメリカで結婚しており、国際結婚だったんです。一番右が晩年の、大統領をやっていたころの写真です。この李承晩は、日帝時代にはおおむねアメリカに留まっており、8・15の解放まで運動を持続したので、アメリカにおける独立運動は李承晩を軸として展開されたということになります。

 それでは李承晩の生い立ちと思想形成から説明しましょう。まずは系譜でありますが、李王朝の祖である李成桂(太祖)の嫡孫であり、李芳遠(太宗)の長男である譲寧大君の16代末裔に当たります。ですから、李氏朝鮮王朝の李氏であり、王家の血統なのですが、彼が生まれたころには家系は没落して両班とはいえ幼少時代は非常に貧しかったと言われております。

 韓国では、子供の頃は徹底した儒教教育を受けます。李承晩は幼少時に「千字文」を暗誦したという話があります。私は朴普煕先生の『証言』という著書を訳しましたが、朴先生の幼少期にもこの「千字文」を暗誦したという話が出てきます。李承晩は次いで「童蒙先習」「資治通鑑」などの古典を学び、18歳までに書堂で中庸、論語、孟子、詩経、周易を修めました。このようにして18歳までに儒教的教養を徹底的に身につけました。

 しかし、21歳の時に西洋文明との出会いをなします。1896年にアメリカ人のキリスト教宣教師アペンセラーが設立した「培材学堂」というところで学び始めるのです。そこで彼は英語、キリスト教、民主主義について初めて学ぶことになったのです。

 同じ1896年に、彼は徐載弼の「独立協会」の結成に中心メンバーとして加わります。李承晩は当時21歳だったんですが、既に有力な弁論の闘士として活躍していました。1897年には、高宗退位要求の檄文散布に加わり投獄されてしまいます。当時絶対王権を持っていた高宗に対して退位を要求したわけですから、重罪ということで無期懲役刑を受けます。しかし、恩赦によって7年目に出獄することになるわけです。実に李承晩は若い頃に7年間も投獄されているんですね。そして彼は、投獄中にプロテスタントの監理教に入信しました。韓国でいう「監理教」とはメソジスト教会のことです。

 佐々木春隆の著書には、このときから「彼が70歳を過ぎて解放の夏を迎えるまで終始一貫して節を曲げず、祖国の独立到来のために尽力したのは、それが神意であると信じ切っていたからであろう」(佐々木、p.356)と書いてあります。これは摂理史的に見ても非常に重要なことであると思います。すなわち、李承晩にとって韓国の独立とキリスト教信仰は完全に結びついていたということです。「祖国を解放することが神の御旨なんだ」という絶対信仰を持っていたという点において、私は李承晩は摂理的な人物であったと思います。つまり、個人の意地でもなければ民族主義でもなく、神に対する信仰が動機となって、祖国独立のために一生を捧げるという決意を、日帝36年の間ずーっと持ち続け、ずーっと戦い続けた、まさに「頑固一徹」の人が李承晩だったということなのです。もし信仰がなかったら、途中であきらめていたかもしれません。

 1904年に、特赦による出獄をした後、李承晩はアメリカに渡ります。これはまだ日露戦争が始まる前であり、乙巳保護条約や日韓併合条約が締結される前のことです。しかし、韓国に対する日本の支配は日増しに強くなっていったので、李承晩はアメリカで韓国の独立を守るための活動を開始します。このままでは韓国が日本に飲み込まれるので、アメリカが助けて欲しいということを訴えたわけです。当時の韓国は「米朝修好条約」(1882年に締結)という条約をアメリカとの間に結んでいました。それを根拠として、李承晩は米国大統領に対して日本との調停役を依頼するための密使として働いたのです。

 1905年7月6日、李承晩はセオドア・ルーズベルト大統領に接見し、日本の対韓政策を抑制し、①韓国の独立を全うするに必要な外交措置を講ずること、②日露の講和会議に韓国代表が参席できるよう取り計らうこと、の二つを要請する陳情書を手渡しました。

 ところがルーズベルト大統領はそれを受け取ると、「陳情書が公式の経路を経ていない以上、対処できない」と回答したのです。つまり正式な外交ルートできたものではなく、あなたの私的な文書として来たものだからダメだというのです。しかし李承晩は、金潤晶という名前の在米韓国代理公使とあらかじめ親交を深め、1882年の修好条約の発動を正式に米国政府に要請してもらうように約束を取り付け、その上でルーズベルト大統領に会っていたのです。李承晩は外交的準備をしてから接見に臨んだはずでした。

 しかし、金代理公使が裏切り、「本国からの指示がないとできない」と拒否したので、李承晩の密使としての努力は水泡に帰したのです。実際には、金代理公使は日本と通じていて、李承晩を欺いていたのです。このように同胞に裏切られることによって交渉は失敗しました。ところが、たとえそれがなかったとしても、ルーズベルトが李承晩の陳情を聞き入れていたかどうかは疑問です。ルーズベルトが李承晩に同情的な態度を示す一方で、タフト長官は、桂・タフト秘密協定に調印して、韓国を日本に委ねるかわりに、フィリピンにおけるアメリカの権益を守る密約をしていたのです。すなわち、ルーズベルトの同情は単なるリップサービスに過ぎなかった可能性があり、国際関係の冷徹さを物語る一例であるとも言えます。ともあれ、これが李承晩がアメリカに渡って最初に祖国のためにした仕事でした。結果は失敗でした。

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