書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』105


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第105回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 今回は第六章「五 統一教会の祝福」の分析の6回目であり、「3 祝福の教団組織上の機能」に関するの櫻井氏の記述の批評の2回目である。

 櫻井氏は、「統一教会の組織構造は、東アジアの宗族に見られる族長支配と王朝による臣民統制をかけ合わせたようにも見える。」(p.314)と述べた上で、「もちろん、この王朝は李朝や北朝鮮の金日成ー金正日親子の体制以上に強力な王朝であることはいうまでもない。政治的支配は、従わないものには暴力をも含む権力的支配を行うが、家族的領域には介入しない。北朝鮮の金体制は完全な思想統制を行うが、男女の性愛を支配下に治めるまでのことはしなかった。できなかったといってもよい。統一教会は人間の根源的な欲望と根源的な関係形成の仕組みまで支配しようとし、それに成功した。したがって、これほど強い支配構造はない。」(p.314-5)という、情緒的で混乱した主張をしている。

 そもそも、国家による支配と宗教による支配のどちらが強力であるかを比較して論じること自体がナンセンスであり、とても社会学者の主張とは思えない。櫻井氏が「政治的支配は、従わないものには暴力をも含む権力的支配を行う」という通り、政治学や社会学において国家の物理的強制機能を指す用語として、「暴力装置」という言葉が用いられることがある。これは国家権力によって組織化され、制度化された暴力の様態を意味する言葉であり、具体的には軍隊や警察の持つ実行力のことを指している。したがって、北朝鮮のような「ならず者国家」でなくとも、国家である以上は「暴力装置」を持っていることになる。そして、これは「聞こえが悪い」という問題はあるものの、必ずしも悪い意味で用いられている言葉ではない。戦争や犯罪が現実に存在する以上、国の独立や社会の秩序を守るために、国家が暴力装置を合法的に独占・所有することは不可欠であり、それこそが国家の本質的機能であると考えられるからである。

 一方で、男女の性愛や家族的領域を伝統的に支配してきたのが宗教であった。統一教会の祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、以下のように述べている:
「長年にわたって宗教と社会と性の関係について調査した結果、私は宗教が持つ非常に重要な社会機能のひとつが、結婚生活が人間の共同体のさまざまなニーズに役立つように、結婚生活における性的表現を形成する役割であるという確信を持つようになった。この『形成』が、個人をグループに適合させ、『真正な』メンバーとしての彼または彼女の活動をコントロールするプロセスを促進するのである。・・・私は以下のことを主張する。そしてこれらは本研究の基本的な前提となっている。(1)そのメンバーの性や結婚に関する生活をコントロールすることのできる社会やグループは、彼らの生活全般をも相当にコントロールすることができる。(2)歴史的にみて宗教的信仰の形成は、共同体がそのメンバーの性と結婚に関する活動を規制するための最も効果的な手段であることが証明されている。」(『統一運動における性と結婚』p.8)

 櫻井氏もこのことを知らないわけではないので、本書の中で「歴史的には宗教が性を統制してきた。」「宗教制度は女性・男性のセクシュアリティやジェンダーを規定し、安定的な家族の再生産を方向づけてきた。」「統一教会による性の統制、家族の形成も、宗教としてありえないものでも例外的なものでもない。」(p.314)と述べている。櫻井氏が大げさに「これほど強い支配構造はない」と述べている統一教会の支配は、実は歴史的に宗教が果たしてきた役割と同じなのである。国家は法と暴力装置によって人を「外側から」支配しようとするが、宗教は権威と価値観によって人を「内側から」支配しようとする。そしてその価値観は男女の性愛や家族のあり方と密接に結びついていることが多い。要するに宗教と国家では人の支配の仕方が異なるということなのであって、「どちらが強力か」という比較自体がナンセンスなのである。

 強制力という観点からすれば、暴力を持って人を従わせる力を持った国家権力の方が強力であることは明らかである。暴力には人を意思に反して従わせる力がある。しかし、暴力をもってしても、人を自発的に従わせることはできない。その意味で、人を自発的に従わせることのできる宗教には、暴力以上の力があると論じることは可能かもしれない。しかしながら、宗教によって自発的に従う人の割合は、暴力によってしぶしぶ従う人の割合に比べて著しく低い。要するに「どちらが強力か」という議論は、ものの見方によって結論が変わるのであり、本来は比較の対象にならないことを論じているのである。

 櫻井氏はあたかも見てきたかのように、李朝や北朝鮮の体制以上に統一教会の支配は強力であると主張するが、果たして彼が李朝や北朝鮮における結婚のあり方についてきちんとした調査をしたうえでこうした主張をしているのかは怪しい。李氏朝鮮時代の家父長的家族制度は、政教の根本理念に採択された儒教によって厳格に統制され、生活の規範と儀式は全て儒教の教えによることを強要されていた。家長の権威は国家によって保障されていたのであり、家長は内では先祖の祭祀を主宰し、家族の管理と扶養、分家や養子縁組、子女の婚姻・教育・懲戒・売買などに関する全権を持って家族を統率していた。また、外では民間の契約は家長の署名なしには成立しなかったし、官庁でも家長を相手に全てのことを処理した。その意味で李朝は家父長的家族制度によって民を統治していたと言っても過言ではない。「家族的領域には介入しない」のではなくて、王朝の支配が家族制度を通して個人にまで及んでいたのである。そして家族のあり方を支配していた価値観は、儒教の教えであった。

 北朝鮮もまた、単に「暴力装置」によって外側から国民を統治するだけでなく、思想統制によって内側から国民を支配しようとするため、それは時として性愛や結婚の領域にまで及ぶことがある。北朝鮮には全人民を網羅する監視統制システムがある。北朝鮮の国民は、小学校2年生から「朝鮮少年団」に入り、満14歳になると金日成・金正日主義青年同盟に加入する。その後は年齢や職業によって細分化された組織に加入し、死ぬまで何らかの組織に所属するのである。そして「生活総和」という定期的に行われる思想教育の行事で、他人の批判と自己批判を繰り返すことによって統制される。したがって、国民を監視統制し徹底的な思想教育を行う北朝鮮が、「結婚も党や国家のためにするもの」という考えを持ったとしても不思議ではない。

 北朝鮮の結婚や恋愛のあり方がどうなっているのかは、実際には正確な情報は分からず、インターネットに流れている情報から推察するしかない。それによると、以前は労働党や親が決めた人と結婚する例が多かったが、最近は自由恋愛が許されるようになったという。ネットの情報の中には、北朝鮮の政府が男女の性愛や家族的領域にまで介入した事例として、政治犯収容所における「表彰結婚」の話が出てくる。

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北朝鮮収容所、肉体的拷問より残酷な「表彰結婚」(1)

 男女の愛、子どもの出生さえも北朝鮮の政治犯収容所では「計画管理」に含まれる。男女模範囚を選んで子どもを産ませる「表彰結婚」がそれだ。 こうした方法で政治犯収容所で生まれ、脱北に成功したシン・ドンヒョクさん(30)が28日、脱北者の人権について口を開いた。韓国に定着した脱北者のうち、政治犯収容所の「表彰結婚」で生まれたのはシンさんが唯一だ。

シンさんは完全統制区域である平安南道价川市(ピョンアンナムド・ケチョンシ)の「价川14号管理所」で生まれた。出生から政治犯として烙印を押されたまま24年間暮らし、06年に脱出した。

 この日、中国大使館前の脱北者送還反対デモに参加したシンさんは、政治犯収容所の肉体的拷問よりも残酷な人権じゅうりんは「感情拷問」と述べた。 シンさんは「表彰結婚」を例に挙げた。遅刻もせず熱心に働き、「生活総和(お互い監視させる自我批判の場)」に誠実に臨んだ模範囚の男女を、金日成(キム・イルソン)や金正日(キム・ジョンイル)の誕生日に選び出し、5日間ほど同じ部屋に同居させて子どもを産ませる制度だ。2人の看守が収容所内の2500人ほどの収監者を監督しているが、男女の相手は看守によって決められる。 シンさんは「政治犯収容所10大原則に男女接触禁止があるが、表彰結婚はこれを許す唯一の窓口」とし「こうした環境の中で、人間の原初的な感情である家族、愛、友情のような概念自体を理解することができなかった」と告白した。

(http://japanese.joins.com/article/747/148747.htmlより引用)
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 シンさんの証言が事実であるとすれば、北朝鮮の金体制が男女の性愛を支配下に治めるまでのことはしなかったという櫻井氏の主張は誤りであることになる。北朝鮮における結婚事情について社会学的な調査をすることもなく、イメージだけで比較をする櫻井氏の態度は、とても学問的とは言い難い。

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