実況:キリスト教講座17


キリスト教と日本人(5)

実況:キリスト教講座挿入PPT17-1

 豊臣秀吉がキリシタンに対してなした酷い仕打ちの一つが、長崎26聖人の殉教です。この事件のきっかけの一つには、1593年にフランシスコ会という別の修道会が日本宣教を開始したということがあります。それまではイエズス会がやっていたんですね。ところがフランシスコ会というカトリックの別の修道会が日本に対する宣教を始め、1596年に「サン・フェリペ号事件」が起こります。これは、マニラからスペインに向かうスペイン船サン・フェリペ号が、台風で日本に漂着したんですね。彼らは日本で拘束された際に、日本側を威嚇して、世界地図を見せながら「スペインがどんなに大きな国か知っているか。スペインが日本を征服するぞ!」と言い放ち、それが秀吉に報告されて、秀吉が激怒して、長崎26聖人の殉教を引き起こしたと言われています。

 その当時、日本にいたキリシタンの中でフランシスコ会の人々を中心として京都や大阪で捕縛し、長崎まで連れて行って、見せしめとして十字架の刑で合計26名を殺したという事件です。長崎に行きますと、日本26聖人殉教地の記念碑があって、私も以前そこに行ったことがあります。殉教者の中には小さな子供も含まれていました。これが日本におきまして、キリスト教に対して最初に大きな「NO!」を突きつけた事件となったわけです。

 次に、徳川家康とキリスト教についてお話しします。豊臣秀吉がキリスト教を迫害したことは確かに事実でありますが、秀吉の迫害というのは気分や感情に基づくもので、いわゆる徹底的にシステマティックに迫害したわけではありませんでした。それに比べて徳川家康は、極めて徹底的にシステマティックにキリスト教を迫害した人物だということになります。家康の基本姿勢がどうであったかと言えば、キリスト教は自分の日本支配と相容れないものであると認識していました。それに加えて、新興のオランダとイギリスが、先にやってきたポルトガルとスペインには日本を侵略しようという意図があると中傷しました。それによって家康はポルトガルとスペインに対して疑心暗鬼となって、その背後にはキリスト教があるということで、1614年に全国にバテレン禁止令を出して、キリスト教を禁止してしまいます。このときから、キリスト教に対する徹底した組織的弾圧が始まりました。そして1614年から1646年までの間に、4045名の殉教者が出ました。

 このように徹底的な迫害が行われたわけでありますが、その迫害の過程で家康は一つのことに気付くわけであります。それは、熱心なキリシタンにとっては、殉教は「天国への直路」であり、栄誉であったということで、迫害すればするほど、キリシタンたちは喜んで死んでいくということに気付いたんです。そして殉教者が称えられ、殉教という迫害策がかえってキリシタンの信仰に栄誉を与えるものであることを知るようになった徳川幕府は、簡単に殺してしまわないで、拷問によって信仰を棄てさせる「棄教策」に重きを置くようになっていったんです。具体的には、水責め、俵責め、焼き印、穴づりなど、いろんな拷問の方法があるんですが、要するにすぐに殺さないで、信仰を棄てるまでじわじわといじめるというやり方をするようになったわけです。

代表的な踏絵

代表的な踏絵

 そのときに、キリシタンであるかどうかを見極めるために、「踏み絵」という道具を使いました。これが代表的な踏み絵で、残っている実物ですね。ちょっと見にくいですが、左側が「ピエタ」と言って、聖母マリヤが十字架から降ろされたイエス様を抱きかかえている像です。右側が十字架にかけられたイエス様の像です。このようなキリスト教のシンボルを踏むことができるかどうかによって、キリシタンであるかどうかを見極めようとしたわけです。こういうとても執拗な検査をして、迫害を行ったというのであります。

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 これが代表的な拷問の様子でありますが、左側が「火あぶり」です。右側が「穴づり」と呼ばれるものです。この「穴づり」は棄教をさせるときに一番典型的に使われた拷問の手法でした。遠藤周作の小説にも、この「穴づり」の拷問が登場します。これは要するに、逆さにつるすんですね。人間、逆さにつるしてもすぐに死なないですね。しかし、頭に血が上ってくるわけです。そうすると、ものすごい頭痛が襲ってきて、目や耳や鼻から血が出てくるわけです。そういう状態で、1時間、2時間、3時間と、ずーっと逆さにつるしておくわけです。そうすると想像を絶する頭痛に悩まされるわけです。でもすぐには死なない。そこへ役人がやってきて、脇から「あなたの信仰を棄てなさい。信仰を棄てれば助けてあげる。棄てれば楽になる」と、ずーっとささやき続けるわけです。

 これは恐ろしい拷問です。すなわち、すぐに死ぬことができなくて、信仰を棄てるまでこの苦しみが続くという状態に直面しなければならないわけです。ですから、日本の役人たちは殉教をさせてあげない、殺さないで、信仰を棄てざるを得ないような絶望的な状況にキリシタンたちを追い込んで行ったわけです。ですから、これはまさに強制棄教、強制改宗そのものでありまして、いまも日本で統一教会信者に対する強制棄教が行われていますが、ある意味でそれはまさに日本の伝統なんですね。殺すことが目的ではなくて、信仰を破壊することが目的なんです。殉教者を出してしまったら、信徒の信仰が燃え上がるんです。「また殉教者が出た。私たちも殉教して天国に行こう」ということで、キリスト教が勢いづいてしまうんです。

 ですから幕府は、「あの指導者が信仰を棄てた。あの司祭さえも信仰を棄てた」というニュースを流すことによって、信者たちの信仰を失わせようとしたわけです。「あの偉い方も信仰を棄てたなら自分もやめよう」ということになるので、殺すよりも信仰を棄てさせる方が、迫害策としてはよっぽど効果的であるということで、幕府は殺さないで棄教を迫るというやり方を徹底して行ったわけです。

 この「穴づり」の拷問の中で日本の信仰深いキリシタンたちはどのように祈ったのかというと、「どうか私が転んでしまわないように、私の命を取り去ってください」と祈ったというのです。この当時、キリシタンが信仰を棄てることを「転ぶ」と表現しました。統一教会では信仰を失うことを「落ちる」とか「離れる」とか言いますが、当時は「転ぶ」と表現したわけです。「どうか主よ、私が転んでしまう前に、この命を取り去ってください」と祈りながら、拷問に耐えていたキリシタンたちがたくさんいたというのです。

 徹底したキリシタン禁制策が徳川幕府によって取られるようになっていきます。その一つが、「宗門改」と呼ばれるものです。これはすべての国民に毎年定期的に各自の所属する宗旨をお寺(これを檀那寺と言います)の証明を添えて提出させることを言います。いわば全ての国民がお寺に登録しないといけない、すなわち仏教徒にならないといけない。これが第一です。二番目が「寺請制度」です。これは、すべての人が檀那寺からキリシタンでないことを証明する証文を受けなければならないという制度です。三番目が「絵踏み(えぶみ)」です。毎年正月に、キリストやマリアの聖画像を踏ませることです。正確には、絵を踏む行為を「絵踏み」といいます。そして踏まれる絵のことを「踏み絵」といいます。それから、5人組の連座制というのを組んでいます。これは連帯責任の相互監視制度でありまして、5人の組の中で1人でもキリシタンが出たら全体の責任ということで互いに監視し合う制度です。

 最終的には鎖国体制を完成させて行きます。オランダ、中国、朝鮮を除く一切の外国との貿易・外交を禁止しました。これは、幕府にとっては貿易の利益を得られないという点では経済的にはマイナスなんです。でも、それ以上にキリスト教の影響力を日本から排除していくことの方が、統治の上では大事であると解釈されたので、「鎖国」という体制を取ったわけです。オランダはキリスト教国でありますが、宣教を一切しないという約束をして、長崎の出島に出入りを許されるようになりました。中国と朝鮮はキリスト教と関係がありませんから、これらの国々は除いて、一切のキリスト教国との間の貿易を禁止して、完全に日本からキリスト教をシャットアウトしていく政策を取ったということです。

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