書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』104


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第104回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 第100回から第六章「五 統一教会の祝福」に入り、四回にわたって「1 祝福の原理的意味」と「2 祝福の過程」についての櫻井氏の記述を分析してきた。今回は「3 祝福の教団組織上の機能」について扱う。

 櫻井氏は、「統一教会の組織構造は、東アジアの宗族に見られる族長支配と王朝による臣民統制をかけ合わせたようにも見える。つまり、祖先を同じくする人々が宗族の長に従いながら、宗族内の利益を最大化するように協力行動を行い、他の宗族と勢力を張り合う。族長は宗族内の婚姻関係を統制する。宗族は一般に外婚制(同じ姓同士は結婚しない)だが、統一教会は信者のみの内婚制をとる。その代わりに韓国人男性と日本人女性のような国際結婚という外婚制に似た仕組みで教団の国際的なネットワークを形成しようとする。また、王朝支配というのは文鮮明自身がこの世と霊界の王を自称している点からも妥当な形容であり、臣民である信者達は王のために王の命じる使命を全うするのである。」(p.314)という、いささか矛盾した奇妙な主張をしている。これは組織構造の社会学的な分析というよりは、イメージに基づく連想という程度のものであり、仮にも社会学者の主張としては乱暴な印象論に過ぎないというそしりを免れないであろう。

 櫻井氏はこの本の別の章において、統一教会を「コングロマリットといって差し支えがない業態・組織形態を有している」(p.132)と論じている。コングロマリットとは、直接の関係を持たない多岐に渡る業種・業務に参入している企業体のことで、「複合企業」とも言われる。彼が統一教会をそう規定する主な理由は、統一運動が実に多種多様な領域に関連団体をもっており、多角的な活動を行っているためだ。多角経営を行う複合企業と、東アジアの宗族や王朝の組織構造は本来なら似てもにつかない姿であると思われるが、それが統一教会という同一団体の組織構造を分析するために両方とも使われているというのは実に奇妙な話である。どちらも乱暴な印象論ということであれば、「勝手気ままな連想」ということで片付けることは可能かも知れない。

 そもそも、東アジアの宗族に見られる族長支配は、同一の価値観が支配する社会の中にあって、生物学的な血統を共有する人々の間にのみ成り立つものである。社会全体が「親や年長者の命令には従うべき」「個人は一族の名誉や利益のために生きるべき」という価値観を共有しており、本家の分家に対する優位性が確立されており、それが幼い頃から道徳的価値として叩き込まれ、その社会から抜け出すことが極めて困難であるからこそ、そうした支配は成り立つのである。そこに生きる個人にとって、自分の生物学的な出自とアイデンティティーは分かちがたく結びついており、それを否定することは自分のそれまでの全人生を否定するのと同じ重みを持つと同時に、社会的制裁をも覚悟しなければならなかったのである。

 それに比べれば、統一教会の祝福家庭になることは、自分の生物学的な出自によるものではなく、個人の自由意思によって選択したものである。祝福家庭として教会の中で生きる以上は、その価値観に従って生きることが求められるが、ひとたび教会の外に出てしまえばそれに従う義務はなく、外の世界に脱出することは、その意志さえあればそれほど困難なことではない。統一教会の価値観は、広い社会全体を覆っているものではなく、自分の所属する宗教コミュニティーの中でのみ通用する価値観である。そしてほとんどの祝福家庭が、教会という宗教コミュニティーと一般社会という外の世界で「二重生活」を送っている。そうした状況における支配が、東アジアの宗族に見られる族長支配ほど強力なものになることはありえない。教会による祝福家庭の支配は、櫻井氏が想像しているよりももっとずっと緩いものなのである。もし教会の価値観が個人や家庭に深く浸透しているケースがあったとしたら、それは組織的な支配力によるものではなく、個人の信仰の力によるものである。

 しかし、統一教会の二世となると少し事情は異なってくる。彼らにとっては自分の生物学的な出自と宗教コミュニティーの価値観、そして自己のアイデンティティーは分かちがたく結びついており、それは個人の自由意思によって選択したものではない。彼らは幼少期から教会の価値観を教えられるのであり、親の信仰を素直に相続した二世信者にとっては、そこから離脱することは自分のそれまでの全人生を否定するのと同じ重みを持つであろう。にもかかわらず、現実には二世信者たちも宗教コミュニティーと外の世界での「二重生活」を送っているのであり、その間で揺れ動き、どちらの世界で生きるかは自分の意思で選択しているのが現実である。その結果、親の信仰を相続せず、教会の祝福を受けずに一般社会での結婚を選択する祝福家庭の二世も多数存在するのである。これは教会員の立場としては悲しい現実ということになるが、事実を客観的に直視すれば、二世信者に対してさえ、教会による支配はかなり緩いものであると言わざるを得ない。

 統一教会の組織構造と東アジアの宗族の構造とは、社会学的に見て明らかに異なっている。その違いは、櫻井氏自身が指摘しているように、宗族が一般に外婚制を取るのに対して、統一教会は内婚制を取っているという現象に最も端的に表れている。東アジアの相続の外婚制として最も有名なのが、本貫が同じであれば結婚できないという韓国の風習である。東アジアの宗族が外婚制を取っている理由はさまざまな説明が可能だが、①近親相姦禁忌が一定の方向へ拡大された、②集団内部での婚姻を禁じることにより、他の集団との間に婚姻を通じての社会関係をつくりだすため、③男子の血統の拡大を重要視するため、他の宗族との間で女性を交換する必要があるーーといった説明が一般的である。一方で、統一教会の組織構造にはこの3つはいずれも当てはまらない。

 まず、統一教会は宗教的回心によって信者となった者たちの集団なので、信者間には生物学的な家族・親族関係はない。したがって、信者同士が結婚する内婚を行っても、近親相姦にはならないのである。信者が「お互いに兄弟姉妹」であるという認識を持ったり、「祝福によって真の父母の血統に生みかえられ、同じ血族となった」という信仰を持ったとしても、それは霊的・精神的な意味であって、生物学的に家族になるわけではない。したがって、信者同士が結婚しても近親相姦にはならない。

 統一教会では、信者を非信者と結婚させることによって他集団との社会関係を作り出すということは一般的に行われない。信者同士、祝福の子女同士というように、同一のアイデンティティーを持つ者同士が結婚することによってそれを強化・維持しようとする傾向があるためである。教会の外の世界との関わりという点では、婚姻によって社会関係を作り出そうというよりは、外の世界の人間を伝道して信者にすることによって、内婚をさせることで組織を拡大しようとする。これはイスラム教徒と結婚しようとするときに、非信者がムスリムになることを求められるのと似ていると言えるだろう。

 また、統一教会の祝福家庭は男子の血統の拡大にはこだわらない。祝福を受けて生まれた子供は、男子も女子も「天の血統」を持って生まれたと信じられているため、男子の祝福の子女の配偶者をあえて非信者の女子の中から求めようとはしないし、女子の祝福家庭の子女を敢えて非信者の男子に嫁がせるというようなこともしないのである。男子も女子も共に「天の血統」を持って生まれたのであるから、二世信者同士が結婚することが理想とされているのであり、非信者と結婚することはそうしたアイデンィティーの喪失として否定的に捉えられているのである。

 こうして見ると、東アジアの宗族の構造と統一教会の組織構造とは、根本的に異なっていることが分かるであろう。統一教会においては、たとえ韓国人男性と日本人女性が結婚しようと、それは信仰を共有する者同士の「内婚」なのであり、教会の外の社会との関係を作り出すための「外婚」とは根本的に異なっている。その意味で櫻井氏の主張する類似性は破綻していると言えるだろう。

 最後に「王朝支配」について簡単に整理すれば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教の伝統においては、神を「王の王」として崇めることがあるという事実を抑えておく必要がある。これらの宗教では、ヤハウェ、イエス・キリスト、アッラーを指して「王の王」と呼ぶことがある。このときの「王」とは、政治的な権力を持った存在を意味するのではなく、それ以上の権威と力を持った至高の存在であるという、宗教的・理念的意味合いで言っている言葉なのである。統一教会でも、確かに文鮮明師を「平和の王」と呼ぶことがあるが、それは教団や信徒に対して政治的権力をふるっているという意味ではなく、真の愛によって子女を治める父母なる存在という意味で言っているのである。

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