書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』99


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第99回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 前々回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、清平修練会の特異な環境と一種の異常心理状態についての考察を開始した。今回はその3回目である。前回は宗教的修行の場における一時的な異常心理状態に対して、深い理解と洞察を得ることのできる資料として、町田宗鳳氏による『狂いと信仰』(PHP研究所、1999年)を紹介したが、今回はその続きである。

 かつて統一教会を元信者らが訴えた民事訴訟の中で、清平の修練会は「人為的に『霊体験』を参加者に引き起こすためのものであり、そのことによって、参加者の統一協会的人格をあと戻りが不可能なものに深化させるためのものである」とか、「変性意識状態(ASC)を意図的に作り出し、禅に言う『魔境』=一種の幻覚体験を意図的に作り出すための装置なのである」といったことが主張されたことがあったが、興味深いことに、町田氏の著作は、「変性意識体験」(ASC)にも言及しているが、その主張は統一教会反対派の主張とは180度異なるものである。
「非常に参考になるのが、オウム真理教徒が受けた洗脳を「変性意識体験(Altered States of Consciousness)」として分析する小田晋氏の研究である。彼は、洗脳が起きる条件として、八つの項目をあげている。
 (1) 感覚遮断(個室修行)
 (2) 睡眠剥奪(断眠)
 (3) 飢餓(低血糖及びアルカローシスによる意識低下)
 (4) 呼吸法による酸素欠乏及び過呼吸による血液のアルカローシス化
 (5) 様々な方法による権威と賞賛の相反するメッセージの洪水
 (6) マントラ(呪文)のような形での同一メッセージの反復注入による精神の自動化
 (7) 幻覚剤その他薬物の使用
 (8) 環境ビデオなど狭義の仮想現実の応用

 洗脳という言葉とは、およそ縁のなさそうな禅修行にも、これらの条件はほとんどそのままあてはまる。ということは、禅もまた『変性意識体験』の一形態であることになる。」(「狂いと信仰」p.37-38)。

 町田氏は著書の38-41ページにおいて、これら8つの項目について禅宗の修行内容を分析した上で、「変性意識体験」を構成する条件のすべてが禅宗の修行に当てはまることをあてはまることを説明した上で、以下のような結論を下している。
「このように坐禅が『変性意識体験』となる条件は、ほとんどすべて整っているのである。それがカルト集団のように洗脳と呼ばれることはなくても、坐禅という行為に参加することによって、修行者が特殊な心理状態におかれることは否めない。外部からの強制で起きる洗脳と、自発的な信仰上の回心は、ふつう異なるものとして受け止められているが、その心理変化の過程を注意深く観察すれば、そんなに厳密に区別できるものではない」。(「狂いと信仰」p.40-41)。

 このように、町田氏は「カルト」などと呼ばれる新宗教におけるいわゆる「洗脳」の過程と、伝統的な禅宗における修行において体験される過程は、容易に区別することのできないものであるとしている。すなわち、宗教体験と特殊な心理状態は普遍的に結びついているのであり、特定宗教における異常心理だけを他と区別して非難することはできないのである。それではこのように一見して異常心理のように見受けられ、心理学的にも「変性意識体験」と呼ばれる体験が、宗教的修行において見受けられることの本質的な意味はどこにあるのであろうか。町田氏の結論は、以下のようなものである。
「疑団、禅病、魔境など、禅の修行に付随する幾つかの精神的リスクについて述べてきたが、そのような事情は『虎穴に入らずんば、虎児を得ず』という禅話によっても古くから表現されてきた。獰猛な虎が住む洞窟に潜入するがごとき危険を冒さざるを得ないのが、本来の修行者の姿なのである。では、その『虎』とは何かということになるが、それこそ筆者のいうところの<狂い>である。」(「狂いと信仰」p.41-42)。
「しかし、禅にかぎらず、人の精神を日常空間から非日常空間へ解放することに宗教の第一目標があるはずだから、最初から最後まで道徳的教訓しか垂れない宗教があれば、それを宗教と呼べるかどうか、はなはだ疑問とせざるを得ない。」(「狂いと信仰」p.49)。
「戒律を重視し、禁欲的な実践修行をその教義の中心にすえる禅仏教でさえも、一皮めくれば、<狂い>の要素がいくらでも見つかるのである。別な言い方をすれば、理屈や道徳ばかりを説いて、<狂い>の要素をいくらかでももたない宗教は、磁力を失った磁石のようなもので、人を<救い>の世界に導き入れることもできなければ、そこに人が集うこともないだろう。」(「狂いと信仰」p.53)。

 これは「試練と恵み」という宗教における普遍的なモチーフの一種であり、宗教現象の本質的な部分の一つである。これらは二つで対を成して全体として宗教体験を構成する要素であり、そこから、「試練」や「狂い」に該当する部分だけを切り離して否定することは、宗教そのものを解体することにつながるのである。「試練」の要素を人為的に取り去ってしまえば、その後に訪れるはずの「恵み」「悟り」「救い」といった肯定的な部分も失われてしまうからである。

 立命館大学教授の斎藤稔正の論文「変性意識状態と禅的体験の心理過程」は、ASCと禅の修行中に起こる以上体験について扱ったものだが、彼の論文は禅宗の修行の中にこのような肯定的な部分があることを以下のように述べている。
「中でもとりわけ坐禅を通じての見性体験(悟りへの段階)は、他のASC現象とは部分的に共通性は見られるものの特異な創造的な体験である。またこの種の感動的な体験は、Maslow(1962)が指摘しているように至高の体験であり、人格の成長を促すような性質を持っている。」(斎藤稔正「変性意識状態と禅的体験の心理過程」、p.46)
「一見すると、異常性、病理性、現実逃避性、退行性の要素も見られるが、究極的には根源的意識の方向性をもった状態である。」(斎藤、前掲論文、p.46)
「確かに自我機能が低下してセルフコントロールが困難になった状態は、理性によって統制された社会の通念とは真っ向から対立する現象であることは言うまでもない。だが、ASCには一過性に精神病理的な症状に類似した現象が顕在化する場合もあるが、そこを通過してさらに深層へと意識が深化したときには、人間的に価値の高い創造的内容をも体験することができる。精神病者との相違はそれらの体験をしたあと、再度通常の現実に可逆的に戻ることができるという点である」。(斎藤、前掲論文、p.52)

 清平の修練会に参加した統一教会の信者らもまた、禅宗の修行者と同じく、肉体的な苦痛や精神的な葛藤などの「試練」を通過した後に、神との出会いや先祖の救いなどの「恵み」を受けているからこそ、わざわざ韓国まで繰り返し出かけていって修練会に参加しているのである。清平の修練会には自発的なリピーターが多い。単に人工的に恐怖体験を作り出して信者を精神的に拘束することだけを目的とした修練会であれば、多くの人々が何度も自発的に修練会に参加することはないであろう。

 また、清平の修練会に参加した信者たちは、修練会中に「霊体験」をしたとしても、それがその後の日常生活においても継続するわけではなく、修練会から帰ってくれば普通の日常生活に戻るわけであるから、これは斎藤の言う「可逆的」な体験であり、病的体験ではない。清平の修練会に参加する人々は、そのほとんどが健常者であり、精神病者ではない。精神病的症状を持つ者に対しては、修練会に参加することよりも、医学的な治療を受けることが推奨されているのである。そのために、清平の敷地内には「清心病院」と呼ばれる病院があり、こうした問題を抱えた信者たちに対応できるようになっている。このことからも、清平の修練会が病的な症状を人工的に作り出すことを目的としているのではないことは明らかであり、あくまでも健常者が修行を通じて宗教的体験をするための環境を提供しているのである。

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