書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』15


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第15回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
 復活論の批判を一方的な思い込みに基いて展開し終えた櫻井氏は、『原理講論』の順番に従って予定論の解説に入っていく。『原理講論』の予定論のポイントは比較的シンプルであり、「み旨成就はどこまでも相対的であるので、神がなさる95パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき5パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである」(243ページ)という記述に集約される。『原理講論』は主として韓国の根本主義者たちを対象として書かれたものなので、彼らに広く支持されていた絶対的予定説に対する反論として議論が展開されており、これはすぐれて神学的なテーマであると言える。

 そのような絶対的予定説を提唱した代表的な人物が宗教改革者のジャン・カルヴァンであり、彼は神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め定められているとする「二重予定説」を主張した。このような「絶対的予定説」に対する反論として、その予定が実現するかどうかは人間の責任分担の遂行如何にかかっているという「相対的予定説」を展開しているのが『原理講論』なのである。したがって、このような議論はあくまでも神学的問題として取り扱うべきでる。しかし櫻井氏はここで神学のフィールドを離れて、組織論の問題から批判を開始する。彼は次のように主張する。
「一見すると極めてうまい説明のように思える。摂理の成功、失敗を全てこれで正当化できるのだから、過去と未来にわたって神とメシヤの責任は問われない。わずか5パーセントとはいえ、『人間自身においては、100パーセントに該当するということを知らなければならない」(244項)。だから完全な献身を求められる」(p.51)
「とはいえ、信者からするとこれははなはだ不公正な論理であり、常に悪いのは自分、努力不足の自分を責めるほかないし、そこを執拗に責めるメシヤというのはオールマイティなのだろうかという疑問も生じるに違いない。そこで、統一教会の親としての神というレトリックが持ち出されるのである」(p.51)

 特定宗教の教理が信者から見て不公正な論理であると論じることがいかにナンセンスであるかは、それとまったく逆の立場の教義に対しても同じことが可能であることを示せば、容易に理解することができる。例えば、『原理講論』が批判している絶対的予定説に対して、櫻井氏と同じことをやろうとすれば、それはいとも簡単である。
「カルヴァンの予定説によれば、ある人が神の救済にあずかれるかどうかは予め決められており、その人がいくら熱心に信仰しようが、善行を積もうが、それは救済されるかどうかには全く関係ないということになる。このように個人の意思や行動に関係なく、神によって一方的に救われるかどうかが決定されるなどということははなはだ不公正であり、そのような独裁的で無慈悲な神は信じるに値しない。そもそも初めから滅びに至るように神が定めた人間が存在するなどという考え方は、神の本質は愛であるというキリスト教の基本精神に反するし、甚だしい人権侵害の思想である。」

 といった具合である。すなわち、絶対的予定説であろうと、相対的予定説であろうと、信者の立場から文句を言おうと思えばいくらでも可能なのであり、そうした批判にはまったく学問的価値はないのである。

 キリスト論に関する櫻井氏の説明は特に内容がないので、復帰原理の解説へと進むことにする。ここから櫻井氏は批判のスタンスを考古学や聖書学などの実証主義的な歴史学にシフトさせて、そこから『原理講論』の展開する神学に挑戦を試みている。

 櫻井氏はまず、「この歴史論は後述するように、2000年を一区切りとして三回分、計6000年間で人類史を説明しようとしている。これだけ考えても、アメリカの創造説にも匹敵する宗教的歴史観は、考古学や形態人類学、古代史や比較文化史の学術的成果にまったくそぐわない」(p.52)という具合に、一発ジャブを入れてから中身に入る。そして「摂理的同時性の時代」の解説では、『原理講論』の提示する1600年、400年といった数字が実際の聖書の記述と合わない、創世記の人物が900年前後の寿命を生きたと書かれているのを史実と解釈するのはおかしい、聖書史学が明らかにしたモーセの年代やイスラエルの統一王国時代の年代は『原理講論』の設定する年代とかなりずれている、紀元後の世界史に関してもぴったり原理数にならずに数年ずれている、などの批判を次々と展開していく。櫻井氏の基本的な主張は、「1600、400といった年数に原理的な意味があるとか象徴的な意味があるとかいった説明は数字あわせである」(p.56)というものである。

 私は統一神学校で旧約聖書学を学び、アンドリュー・ウィルソン博士から「イスラエル史」を学んだので、こうした学問的立場から『原理講論』の記述を批判的に検討するという思考法を理解することができる。しかし、それは聖書批評学や歴史学という特定の学問的立場からするものであって、神学や信仰の問題と混同することはない。それらは別の領域に属する問題であるからだ。櫻井氏の議論は常にこの領域を飛び越えて、極めてご都合主義的にこうした学問的成果を教義批判に利用するという特徴を持っている。

 『原理講論』は組織神学的な書物であるため、基本的に聖書に書かれていることは神の啓示であると信じる立場から論理が展開されている。組織神学においては通常、旧約聖書に書かれていることが歴史的事実であるかどうかといったことは扱わず、聖書の記述の中にどのような神のメッセージを読み取るかということを問題とするのである。櫻井氏の言うような考古学や古代史の立場から旧約聖書を批判的に読むのは、聖書批評学の立場である。実はこうした立場からの批判は、『原理講論』のみならず、あらゆるキリスト教の信仰を破壊するような性質を持っているのである。少し詳しく解説しよう。

 近代における旧約聖書研究は、それまでキリスト教の聖典として信仰的・神学的視点からのみ研究されてきた旧約聖書のテクストを、歴史的・文献的側面から解明しようとする試みであった。すなわち、旧約聖書に記されている出来事は歴史的事実なのか、各書の著者は誰で、どのような思想の持ち主であり、いつ頃の年代に書かれたものなのか、あるいは現在一つにまとまっている書物も、一人の著者によって書かれたものなのか、それとも長年にわたる加筆や編集の結果として出来上がったものなのか、といった問題について分析することを主な課題としているのである。

 19世紀後半に入って、自由主義の思潮のもとに、「信仰から見た聖書」ではなく「聖書を歴史的事実に即し合理的批判精神で見る」という立場が確立するに及んで、聖書テクストの批評的研究は大きく発展した。さらに、20世紀に入ってからは考古学の研究が飛躍的に発展し、聖書テクストの考古学的観点からの研究が格段に進歩した。今日われわれが目にする多くの聖書研究の成果は、この二つの研究がその基盤となっているといえる。

 しかしながら、旧約聖書研究は、研究の動機そのものが「旧約聖書の記述は歴史的事実かどうか」を調べる試みであったが故に、聖書は神が「霊感を与えて書いたもの」であるという理解とは、全く反対の方向へと進んで行った。そして、旧約聖書は神がモーセに啓示を与え、また多くの聖書記述者に霊感を与えて書かれたものではなく、むしろ人間の手によって編纂されたものであり、その過程で記述ミスや時代錯誤が混入するなど、その編纂過程にもさまざまな現実的要素が入り込んでいるという研究結果は、純粋に聖書を神の御言葉として理解する信仰者にとっては大いなる衝撃であった。さらには、旧約聖書中にはアダムの長寿の問題や、ノアの洪水は全世界を覆ったのか、などといった疑問が多数存在し、聖書の記述に対して科学的な視点から疑問を投げかけたら、それこそきりがない。啓蒙思想以降、こうした聖書に対する疑問は、クリスチャンたちの信仰にとって大きな試練となったのである。

 これはキリスト教が依って立つところの聖書そのものの権威に対して、理性と科学の名によって挑戦がなされたわけであるから、苛酷な試練であったことは疑いがない。例えば、ヨシュアによるエリコ城の陥落は、長年にわたってクリスチャンたちの信仰を鼓舞してきた有名な物語である。しかし、ヨシュアがエリコに到達した時代には、すでにエリコは廃虚であったという考古学の発見は、聖書の権威を瞬間的に失わされるほどの破壊力を持っていたであろう。聖書の記述に合理的なメスを入れることは、われわれの信仰的アイデンティティーを形成している物語を一瞬にして崩壊させることにもなりかねないのである。牧師になろうという純粋な動機で神学校に行ったクリスチャン青年が、聖書批評学を学ぶことによってショックを受けて信仰を失ってしまうということが実際によくあるくらい、この学問には破壊力があるのである。

 その破壊力を、統一教会信者の信仰破壊に利用してきたのが、いわゆる反対牧師たちであった。「歴史の同時性」の年数が間違っているとか、歴史的事実でないといった批判は、伝統的に反対牧師が用いてきた説得の手段であった。なぜなら、統一教会の信仰においては、「歴史の同時性」の年表は文鮮明師がメシヤであることの証明であると理解されているため、それを批判することが文鮮明師のメシヤ性の否定に直結するからである。櫻井氏の『原理講論』批判は、その手法を援用したものであると言えよう。

 しかしながら、旧約聖書批評学は結局キリスト教信仰そのものを破壊してしまうことはなかった。その理由は、こうした研究は象牙の塔の中で行われる一部の知的エリートの作業に過ぎず、それがキリスト教人口の大半を構成している一般大衆に広く読まれることはなかったからである。ほとんどのクリスチャンにとっては、いまでも聖書は「信仰の書物」であり続けており、彼らはその学問的分析に対しては関心がない。こうした事情は統一教会においても同じである。したがって、櫻井氏が展開するような聖書史学的立場からの『原理講論』に対する批判も、監禁現場で反対牧師から無理やり聞かされるという状況以外では、統一教会の食口の耳に届くことはないであろう。

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