書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』80


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第80回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開している。演繹とは与えられた命題から論理的形式に頼って推論を重ね、結論を導き出すことであり、帰納とは個々の具体的な事例から一般に通用するような原理・法則などを導き出すことを意味するのは、いわば常識である。櫻井氏は、自然科学や数学は演繹的思考を用いるのに対して、人文学・歴史学・社会科学などは帰納的方法が多く使用されるという。厳密にはどの学問にも演繹的思考と帰納的思考の両方が用いられるが、櫻井氏はかなり大雑把な手法で学問を二つの分野に分けている。

 しかし、櫻井氏が演繹的思考を用いる学問として見落としている、あるいは意図的に避けていると思われるものがある。それは神学である。神学とは信仰を前提とした上で、神をはじめとする宗教概念についての理論的考察を行う学問である。一般的なキリスト教神学においては、神が存在すること、聖書が神の啓示の書であること、イエスがキリストであることなどは、人間の帰納的な思考の結果として導かれる結論ではなく、学問の大前提として予め与えられている「真理」なのである。つまり、それを信じる立場で出発する学問であり、データを取ることによってその真偽を検証しようというような発想はしないのである。キリスト教神学は、こうした大前提のもとに個々の教義の詳細を論ずる学問であるという点において、徹底した演繹的思考を用いる学問である。しかし、神学は自然科学に分類されることはなく、哲学や宗教学に類似するものとして、人文学に分類されるのが普通である。櫻井氏は人文学においては帰納的方法が圧倒的に多く使用されると述べているので、彼の論法によれば、神学はその中の異端的学問ということになるであろう。

 櫻井氏がこうした神学の特徴を知らないわけはないが、彼があえて神学に触れることを避けたのは、神学的思考とはすなわち宗教的思考であるため、それについて説明してしまえば、統一教会信者の発想や思考とほとんど区別がつかなくなってしまうからである。櫻井氏としては、統一教会信者の思考法を非科学的で異常なものとして描きたいのであるから、それとそっくりな思考法が「神学」という伝統ある学問として存在していることが分かってしまえば都合が悪いので、あえて触れていないものと思われる。

 櫻井氏はこうした学問的思考法をモデルとして、人間観、歴史観、社会観の獲得に話を進める。彼によれば、一般の人達は具体的な事柄から認識を導き出す帰納的方法を使っており、それによって人間観・歴史観・社会観を作り上げるという。これが彼の言う「人間の諸科学の営みや日常生活の思想」ということになるのだが、それに比べると統一教会の学習法は「極めて特異な学習過程」(p.252)であるという。一般的な人間の思考が帰納的であるという彼の前提もかなり大雑把で怪しいものだが、統一教会の学習方法の特異性に関する彼の説明は、明らかに事実と異なり、偏見に満ちたものになっている。その一つ一つを検証してみよう。
「(1) 演繹的発想により自然を説明しようとする。」(p.252)ここでは創造原理の二性性相の部分が取り上げられているが、『原理講論』をよく読めば、帰納法と演繹法の両方がこの議論では用いられていることが分かるはずだ。『原理講論』は、神の性質について知るために、被造物の中に潜んでいる普遍的な共通の事実を発見しようとする。その結果、人間には男と女があり、動物には雄と雌、植物にはオシベとメシベ、分子・原子・素粒子にはプラスとマイナスの電荷があることが分かったので、そこから一般的な法則として「陽陰の二性性相」を導きだし、その原因的存在である神もまた「陽陰の二性性相」を持った存在であると論じている。これはまさに帰納的な論理展開である。そして、それはそもそも神ご自身が陽陰の二性性相の中和的主体であるため、それに似せて創られた被造物はすべて二性性相になっているのであるというとき、それは演繹的な論理展開である。

 創造原理の二性性相に関する議論は一種の自然神学であると言えるが、神についての認識を啓示によらず、理性によってのみ探究していこうとするため、自然神学は基本的に帰納的方法を用いる。しかし、理性的な観察によって得られた法則を一般化して世界に当てはめようとするときには、その発想は演繹的となる。これは科学の分野でも同じであり、データの分析から得られた法則性を仮説として立て、それを一般化してより広範な事象を説明しようとするとき、帰納法と演繹法を交互に用いながら思考していることになる。これは人間の思考の基本パターンであって、櫻井氏の言うように学問によって単純に分類できるものではない。『原理講論』の説明の中にも、その学習過程にも、統一教会の信徒の思考の中にも、帰納法と演繹法は混在しているのであって、「統一教会の信徒は演繹的な思考法しかできない」などということはあり得ないのである。

 宗教を信じる者の日常生活においては、信仰を中心として発想しているときには人は演繹的になる。疑うことの許されない大前提が存在し、そこから「こうあるべきだ」という思考をするのが信仰というものである。しかし、宗教を信じる者も日常生活のすべてのことを信仰に基づいて演繹的に思考しているわけではない。信仰とは本質的に関係のない日常生活の雑事は経験に基づいて判断していることがほとんどであり、人は時と場合に応じて帰納法と演繹法を使い分けているのである。問題は、信仰を中心とする演繹的思考と、経験に基づく帰納的な思考が矛盾・対立するときであり、こうした瞬間は常に信仰者に訪れる。それは時には信仰の危機になり、時には信仰の飛躍にもつながるという両面性を持っている。この問題は、「信仰と理性」「啓示神学と自然神学」の内容にも通じる神学の古典的なテーマだが、どうも櫻井氏にはそのような神学的センスが欠如しているようで、極めて乱暴で大雑把な議論になってしまっている。

 櫻井氏の記述によれば、創造原理の説明では陰陽説の二元論を仮定として、そこから霊肉二元論が演繹的に導かれるかのような説明がなされているが、実際には創造原理がこのように教えられることはない。創造原理で説明している二性性相には「陽性と陰性の二性性相」と「性相と形状の二性性相」の二種類があり、霊と肉は後者に属するものであるから、両者に直接的な因果関係はなく、「陽陰の二元論があるから霊肉の二元論も正しい」というような説明がなされることはない。人間に男と女がいることは客観的に観察可能な事実であるが、霊魂や霊界があるかどうかは我々の五官で経験的に観察できるものではないので、「人間には男と女があるのだから、霊と肉もあるはずだ」というような議論に説得力がないことは誰の目にも明らかであろう。こうした稚拙な議論ができるのは、櫻井氏が原理講義を直接聞いたことがないためであると思われる。あきらかな取材不足だ。

 また、受講生が創造原理を受け入れていく理由に関して、「陰陽説の二元論を仮定とする以上、霊肉二元論の結論だけを否定しても、導出の論理自体が正しいために理解不足という指摘をされてしまう。陰陽説の根本原理まで遡って否定できる人は極めて少ないために、受講生の多くは直感的にはひっかかる事柄があっても、論証の過程に圧倒されて疑問を出せないまま、結論を承認せざるをえないという心境に至るのである。」(p.252)と記述しているが、これは宗教的回心というものに対する彼の根本的な無知あるいは偏見を表明しているような文章である。

 そもそも人は、理路整然と教義を説明され、それに対して反論できなかったり、反論しても論破されてしまったからという理由で、その宗教に回心するのであろうか? 回心とは、理論的に反駁できない教義の結論をしぶしぶ承認することなのだろうか? そんなことはない。筆者はこれまでに、原理に反論できずに悔しい思いをして、それでも原理を受け入れずに去って行った修練生をたくさん見てきた。理論的に圧倒したからといって人は伝道されるものではないのである。人が原理を真理であると受け入れて回心する理由は、それが自分の過去の人生や現在の状況、あるいは自分の理想とする生き方に対する「説明理論」として納得できるからであり、そのことに感動するからである。宗教とは自分自身や世界について説明する「物語」であり、人が回心するということは、ある宗教が説いている物語を、「自分の物語」として採用することを意味する。それは単に教義に理論的に反駁できなかったからといって起こるものではなく、自分の人生と宗教的教義の間に何らかの実存的な出会いがなければ起こらないものなのである。

 宗教学者であるはずの櫻井氏に、なぜこのことが分からないのであろうか? それは資料に問題があるためである。櫻井氏が調査対象とした人々は、「青春を返せ」裁判で統一教会を訴えている原告たちが中心である。彼ら(彼女ら)は一度は統一教会に入信し、熱心に活動までしたのであるから、何らかの宗教的回心を体験しているはずである。ところが、彼らは自らの宗教的回心が真正なものであることを認めてしまうと、主体的な信仰を動機として活動したことになってしまうために、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまう。それでは訴訟が成り立たないので、自分が回心した過程を正直に描写するのではなく、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として描写する必要があるためだ。こうした目的に基いて書かれた歪んだ描写を基礎資料としているところに、櫻井氏の研究の致命的な欠陥がある。

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