韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ01


 今回から、「韓国の独立運動と再臨摂理」と題する新しいシリーズの投稿を開始します。家庭連合(統一教会)の食口の方であれば、「主の路程」や「現代摂理史」というタイトルの話を学んだり、中には自分で講義するという方もいらっしゃると思います。その中ではお父様の生涯と韓国の独立運動は絡み合っており、韓国の解放と共に、すなわち日本が第二次世界大戦で敗戦した1945年から摂理が本格的に出発するという話があります。摂理史の中では、李承晩大統領がお父様を受け入れていれば最初の7年路程は勝利していたんだということになっていて、そのような漠然とした話は聞いていると思います。それが「摂理観」なんですが、それではその李承晩とはいったいどんな人だったのか、韓国の独立運動にはどういう流れがあったのか、また解放と同時に北に金日成が入ってきて、南北が分断されたのはどういうことだったのかというようなことを、ちゃんと歴史的事実に基づいて理解した上で、神の摂理に対する理解をしなければならないと思うわけです。

 そこで私は韓国の独立運動というものを本格的に勉強してみようと思ったわけです。そのためには、独立運動の史実に関する客観的な本を読まなければならないので、どれが一番良いかということを専門家に相談したら、最初に紹介されたのがこの本だったのです。

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 佐々木春隆(1920-2005)という人が書いた、『韓国独立運動の研究』という本です。これは864ページもある本で、これを全部読みました。この本がいくらくらいするかというと、9000円くらいするんですね。ものすごく高い本なんですが、研究しなければいけないということで読みました。この人は1920年生まれですからお父様と同い年です。2005年に亡くなっています。熊本県生まれで、陸軍士官学校を出て、軍人として中国で5年8ヵ月にわたって戦闘に参加しました。1946年に復員するんですが、その後に防衛大学校教授になり、最後は京都大学の法学部であったという経歴の方です。この本は、1985年に初版が出されて、著者が亡くなった後に2012年に再版されたものです。ですから私が入手したのは結構きれいな本でした。これを全部読んで、なるほど独立運動の全貌というのはだいたいこんな感じなのかということが分かったわけですが、この本の目次によれば、一口に「韓国の独立運動」と言っても6つぐらいのカテゴリーに分けられるということなのです。

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 一つ目が、韓半島の国内における日本に対する抵抗運動としての民族運動です。次に、中国に「臨時政府」というものを立てました。上海に臨時政府があったという話は聞いたことがあるかと思いますが、その「臨政」を中心とする運動がありました。それから、アメリカに渡って独立運動をしていた人たちがいます。その代表的な人物が李承晩ということになります。

 それからこの「東満」というのは満州東部です。満州東部における民族派の武装闘争というものがあったわけです。これは実際に日本軍と戦っています。それから共産主義運動ですが、これは韓国の国内にもありましたし、国外にもありました。これは共産主義を中心として日本から韓国を解放しようという運動でした。最後に、「東満における中共党下のパルチザン」というのは正に金日成の運動です。

 このような、かなり目的や性格の異なる6つの独立運動があって、それらが複雑に絡み合いながらも、それぞれの目的に従って運動をしながら1945年を迎えることになります。この6つをあえて分類すれば、前の3つはアベル型の運動であり、神の摂理と直接関係のあるような運動です。そして後ろの3つは、どちらかといえば共産主義的なカイン型の運動であり、神の摂理を阻むような運動ということになります。

 このシリーズの目的は、これらの運動を一つひとつ歴史的事実を追って解説しながら、それが再臨摂理とどのように関わるのかを考察することです。初めに運動の全貌を簡単に概説してみましょう。初めに、アメリカにおける独立運動です。

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 米州での運動の中心は移民が多かったハワイと、カリフォルニア、ワシントンでした。その先達は徐載弼であり、安昌浩、李承晩らがこれに続きます。これらがアメリカに移住して独立運動を行った人々です。
 
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 その次に、中国における独立運動があります。つまり中国に逃れて独立運動を行った人々がいたわけですが、その中心は上海でした。だから「上海臨時政府」というものがあったわけです。けれども、当時の中国は1911年に起こった辛亥革命を控え、韓国の独立を助ける余裕はありませんでした。中国自体が内乱の状態にあったのです。1912年に清朝が滅びて中華民国が成立しましたが、1928年に蒋介石の北伐が完了するまで、中国は内乱に明け暮れたわけです。したがって、上海における独立運動は中国の力を借りるというよりも、租界(そかい)や国民政府の庇護の下にもっぱら世界の同情を得る外交運動の拠点であったと見て良いでしょう。この「租界」が何かといえば、清国内の外国人居留地のことです。そこではいろんな外国人が共同生活をしており、行政自治権や治外法権を持っていたので、独立運動家が紛れ込むには都合の良い場所だったのです。上海には上海の共同租界やフランス租界がありました。このフランス租界に身を隠して独立運動をやっていた人々がいたのです。

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 もう一つの流れがシベリアにおける独立運動です。シベリアには早くから韓国人が住みついていました。その中心人物がこの写真の李東輝という人です。李東輝は「韓族会」を結成して独立運動に火をつけました。こうしてシベリアにも独立運動が生まれるわけですが、シベリアはロシア領にあったため、ロシアが共産化されると、次第にこの独立運動にも共産主義思想が入ってきて、韓国の独立と変革を志向する人にとっては、共産主義が格好の思想的武器となります。そしてボルシェビキが東漸するに伴って李東輝、文昌範らは逐次左傾して、高麗共産党を創立しました。このようにシベリアに逃れた独立運動家は基本的に共産主義の影響下に入っていきます。シベリアの李東輝は共産主義で精神武装し、あらゆる手段で即時独立を勝ち取とろうとしていました。これは暴力革命を支持する共産主義者ですから、基本的に「武断派」です。共産主義の思想をもって武力で戦って、日本からの独立を勝ち取ろうとする考え方です。

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 もう一つが満州における独立運動です。朝鮮半島から鴨緑江と豆満江を渡ればそこには満州がありましたが、この地図で赤く塗った、豆満江のすぐ向こう側の地域は「間島」と呼ばれていました。この地域には、当時から韓国人が多数住んでいました。「間島」は中国の地名で言えば「吉林省延辺」ですが、そこの朝鮮族自治区を通称「間島」と呼んでいたのです。ここの地形はパルチザンに適しており、ソ連に近いため、武装闘争を志向した闘士はここを根拠に抗日運動を行いました。つまり、当時の朝鮮半島は日本の支配下にあったわけですが、そこからこの「間島」に逃れて、ここから武力闘争を展開する韓国人が多数いたということです。

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