書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』98


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第98回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 先回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、清平修練会の特異な環境と一種の異常心理状態についての考察を開始した。櫻井氏の中心的な主張は、清平の修練会は統一教会が人工的に作り出した特殊な環境であり、それは信者の中に一種の異常心理状態を作り出すことによって信仰を強化したり維持したりする装置であるということであった。前回は議論の大前提として、清平の修練会は客観的に見て、それほど肉体的に過酷なものではないことを説明した。それを前提として、今回から本題である宗教的修行と「異常心理」の問題に入ることにする。

 清平の修練会は、出家した僧のみが実践しうる禅宗の本格的な修行とは異なり、一般信者でも特別な資格や訓練を必要とせずに参加できるという点で、それほど精神的・肉体的に厳しいものであるとは言えない。しかし、これも一種の宗教的修行の場であるからには、禅宗の修行と類似した点があり、一見して異常な心理状態と見受けられる現象があることも事実である。「霊の姿を見た」とか、「霊の声を聞いた」とかいった体験は、宗教を信じない人からは異常に見えるであろう。しかし、こうしたことは古来より宗教現象においては広く一般に見られるものなのである。

 こうした宗教的修行の場における一時的な異常心理状態に対して、深い理解と洞察を得ることのできる資料が、町田宗鳳氏による『狂いと信仰』(PHP研究所、1999年)である。町田宗鳳氏は、1950年に京都市に生まれ、14歳で出家し、臨済宗大徳寺で修行を積んだ禅僧である。しかし1984年に寺を離れ渡米し、バーバード大学神学部修士課程修了後、ペンシルヴァニア大学中東・アジア学部で博士号を取得し、プリンストン大学東洋学部助教授、国立シンガポール大学日本研究学科助教授、東京外国語大学教授、広島大学大学院総合科学研究科教授などを歴任した、比較宗教学の専門家である。その町田氏が、「狂い」と「信仰」は切っても切れない密接な関係にあることを詳述した著作が前述の『狂いと信仰』である。「狂い」という概念は町田氏が宗教の本質を理解する上でのキーワードとなっており、冒頭で町田氏は「狂い」について以下のように説明している。
「宗教者の想像力には道徳があるなどというのは、まったくの思い過ごしであるばかりか、宗教体験の中で能動的に想像されるイメージとは、ほとんど<狂い>の産物といっても過言ではないだろうとさえ思うようになったのである。

 さて、私のいう<狂い>の意味であるが、それは理性では覆いきれない人間性の最も奥深い闇の中で、不気味にトグロを巻いている何物かである。それは精神病理学的な意味での狂気と重なるところがあるかもしれないが、<狂い>はつねに病的症状を伴うわけではないから、狂気とまったく同じではない。」(「狂いと信仰」p.8-7)

 自ら禅宗の修行を実践した町田氏はこの著書の中で、一種の「狂い」とみなすことができる修行中の異常心理状態について、以下のように述べている。
「坐禅を心身の健康法のつもりで、一般の人たちが実行することに何の異論もないし、むしろ、落ち着きのない現代人の生活における一服の清涼剤として大いに推奨したいぐらいである。坐禅や静坐の効能は、脳波の研究からも証明されており、通常の意識状態であるβ波から、気分の良好なときに現われるα波、さらに振幅の小さいθ波へと移行していくことが、明確に測定されている。そのような坐禅を目頃から実践すれば、健康にもプラスであることは、ほぼ間違いない。

 しかし、ひとつの精神的覚醒をめざして、真剣に禅修行をするということになれば、話は別である。修行中には、凄まじい心理的葛藤と一種の精神不安定を経験することがあるから、それ相当の覚悟がいる。禅宗は、ときに意志宗と呼ばれたりするほど、強い意志を要求する宗教なのである。

 修行過程で生じる心理的葛藤は、ふつう疑団(ぎだん)と呼ばれるが、英語ではグレート・ダウトと訳されるように、それは特定の概念や理論への懐疑ではなく、自己存在そのものに対するもっと根源的な不安である。・・・

 曹洞禅では、只管打坐(しかんたざ)といって、ひたすら面壁し、自然に禅定が深まっていくのを待つが、臨済禅では、公案と呼ばれる論理的につじつまの合わない問題を修行者に与えて、人工的に心理的葛藤を起こし、そこから意識の飛躍を期するところがあるから、疑団は曹洞宗よりも臨済宗の修行者のほうが経験しやすい。

 公案といっても、『空の星を数えてみよ』、『虚空を粉にして持ってこい』、『鍵の穴から入ってこい』などの頓智めいたものから、『父母が生まれる以前、自分の本来の姿はどういうものであったか』などと、やや哲学めいたものまで、内容は千差万別であるが、共通しているのは矛盾に満ちた問いかけであることである。

 そのような非論理的な問題提起がなされている公案に対して、人間の思考はほとんど反射的に論理的解決を見出そうとする。二律背反的思考を砕くために設定されている公案は、初めから論理的解決が不可能な構造になっているわけだから、それに集中すればするほど、どうしても心理的に行き詰まってくる。そのような膠着状態が何カ月も長引くと、修行者は鬱病にかかったように、重苦しい雰囲気に包まれる。食欲が落ち、何を見ても問いても、心楽しむということはなくなる。精神医学でいう離人症的な傾向も出てきて、人と語らうことすら苦痛になる。

 さらに、接心と呼ばれる集中的な修行期間では、そのような心理的葛藤に、極端な睡眠不足、空腹、疲労、寒熱などの肉体的負担が加わるため、いよいよ心身ともに異常をきたしてくる。疑団は、公案を放棄するか、その解答が見つかるかするまで解消されることはないが、ひとつの覚醒にいたるには、どうしても避けることのできない心の試練なのである。そして、抱え込んだ疑団が大きければ大きいほど、悟りの深さも増すというのも、また真理である。」(「狂いと信仰」p.27-28)
「鬱病的傾向を見せる疑団とはやや趣きが異なる禅病という心身症にも、禅の修行者はかかることがある。それは肉体的精神的負担が大きい修行を長期間にわたって続けるうちに、心身が消耗し、ついには神経衰弱になることである。」(「狂いと信仰」p.30-31)
「鬱病としての疑団や神経衰弱としての禅病に加えて、さらに魔境という幻覚現象も、禅修行にはつきものである。なぜそういうことが起きるかというと、坐禅中に意識が沈潜していくにつれて、今までは自分の深層意識の奥深くに抑圧されていたイメージや感情が、表層意識に急に突出してくることがあるからである。」(「狂いと信仰」p.32-33)
「しかし、古今東西の宗教が、肉体の極限状況と超常現象を宗教体験の中に、うまく取り入れてきたことは明白である。禁欲的修行には、断食・断眠・水行など、さまざまな形態があり、それらはたいてい贖罪の意味をこめて実践されている。肉体を痛めつければつけるほど、罪があがなわれるという信仰である。

 それと同時に、禁欲のもう一つの目的は、心身の消耗に伴って、意識と無意識の境界線が曖昧になってしまう生理現象を利用して、絶対者との一体感を体験することにおかれているのである。中世初期の仏教者によって書き残された幾つかの『往生伝』にも、木喰行や断食行に専念する山林の修行者の話がよく出てくるが、彼らの死すらをも覚悟した極端な禁欲の狙いは、極楽の光景や、そこから来迎する阿弥陀如来を目撃することにあったのである。当然のことながら、禅の修行者も、たらふく食べて、存分に睡眠をとってから、坐禅をしたところで、おそら<悟り>にはいたることはないだろう。修行には、<狂い>にいたるだけの舞台仕掛けが必要なのである。」(「狂いと信仰」p.36-37)

 ここで重要な点は、禅宗に代表される伝統的な宗教も、宗教的体験を引き起こすための舞台仕掛けを人為的に作ってきたということである。それには肉体的苦痛と心理的葛藤が付き物であり、鬱病や神経衰弱といった精神病のリスクさえも伴う。櫻井氏は、清平の修練会はこうした異常な心理状態を意図的に作り出している旨を主張しているが、これはそっくりそのまま伝統的な禅宗の修行にも当てはまることであり、それ自体を非難することはできないのである。

 宗教的修行と「異常心理」に関する町田氏の解説は、さらに次回に続く。

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