韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ02


 先回は植民地化された韓国本土を離れて外国で行われた独立運動を概観しました。それでは国内ではどういう運動があったかといえば、これが「三・一独立運動」ということになります。

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 三・一独立運動が起こった背景には、1918年1月にウィルソン米大統領が民族自決主義を骨幹とする平和意見14か条を発表したことがあります。この「平和意見」というのは、第一次世界大戦の和平実現のための原則として、ウッドロウ・ウィルソンというアメリカの大統領が主張した内容です。第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約が「ベルサイユ条約」ですが、実はこの条約はウィルソンの平和意見に基づいて講和がなされたと言われていて、その中に民族が自分のことを自分で決定する権利、すなわち 「民族自決」の原則が謳われているのです。

 ところが、現実には当時の西洋諸国はすべて植民地を有していたわけですから、「民族自決」と言っても自己矛盾をはらんでいました。それでも帝国主義列強の一角であったアメリカが「民族自決」を容認したことの反響は非常に大きかったわけで、これが韓民族に大きな希望を与えるようになったわけです。すなわち、「ウィルソンの民族自決権の原則は、韓民族の血を躍動させた」とか、「この自決の原則が、武断政治に喘ぐ韓民族に熱烈に歓迎されたことはもちろんである。世界はまさに『威力の時代』を過ぎ、『道義の時代』が到来したと信じられた。民族自決の原則により韓国も独立できるとの希望が、それまで秘密裏に論議されていた独立運動を表面化させた」と言われています。ウィルソンの「民族自決」の主張に触発されて、三・一運動が起こったということです。

 この三・一運動が起きる前に、日本で「二・八運動」というものが起こっています。これは東京に留学した韓国青年による独立運動です。1918年12月28日に、東京神田の朝鮮キリスト教青年会館で在日朝鮮留学生の雄弁大会がありました。そこで、血気盛んな学生たちが、穏健で時間のかかる自治論よりも、急進的で即効性がありそうな即時独立論を支持する演説を行いました。これを受けて翌年の1919年2月8日に、李光洙ら留日朝鮮人学生たち約600名が朝鮮キリスト教青年会館に集まり、「独立宣言書」を採択しました。これは当然、日本の警察の取り締まりの対象になります。このとき警察と学生の間で衝突が起こり、30名が負傷し、60名が逮捕されました。このように、三・一運動の呼び水になるような運動がまず日本で起こったわけです。そして同じ年の3月1日に三・一運動が起きるのです。

 そもそも、なぜ3月1日だったのでしょうか? 実は、もともとは3月3日にやることが計画されていたのです。この3月3日がどういう日であったかというと、1919年1月22日に李朝末期の国王であり、大韓帝国初代皇帝であった高宗が亡くなりましたが、その葬儀に予定されていた日だったのです。そこで全国から葬儀のために人がいっぱい集まって来るので、その場で独立を宣言しようという計画が立てられました。

「運動の引き金となった高宗の葬儀」

「運動の引き金となった高宗の葬儀」

 ですから、初めは全国から大葬に参列する群衆にアピールする計画であったんですが、さすがにお葬式の日に「独立万歳!」と叫ぶのは国王に対して不敬ではないかということになり、それを避けるために3月1日に繰り上げられたということなのです。なぜ3月2日ではなかったかと言えば、その日が日曜日だったからです。独立運動家にはクリスチャンが多かったので、日曜日は礼拝を守らなければならないということで、結果的に3月1日になったので、「三・一独立運動」と呼ばれるようになったわけです。

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 それでは三・一運動がどんな運動であったかというと、天道教、キリスト教、仏教の指導者らによる合同の独立運動だったという意味において、かなり宗教的な背景を持った運動であったと言えます。民族代表33名が名前を連ねているわけですが、その中に天道教が15名、キリスト教が16名、仏教が2名います。人口比から言うと、かなりキリスト教指導者の占める割合が大きいと言えるでしょう。

 このときの「大韓独立宣言書」を起草したのが崔南善(1890-1957)という人物です。この宣言文は、「われらはここにわが朝鮮が独立国であること、および朝鮮人が自由民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を克明し、これをもって子孫万代におしえ、民族自存の正当なる権利を永久に所有せしむるものである。」という文言で始まる、非常に格調高い文章になっています。崔南善は文学者でもありました。

 この三・一独立運動の最大の特徴は、非暴力の運動であったということです。これは武装蜂起ではなくて、武器を一切持たず、宣言文を読み上げて、「大韓独立万歳」を叫ぶという示威運動であったわけです。ですから、日本政府から見れば、武装していないわけですから、鎮圧するのは非常に簡単だったのです。歴史の記録によれば、3月1日午後2時、泰和館に参集した代表29人の前で宣言書が読み上げられ、「大韓独立万歳」を三唱した、というのがその日の出来事です。発端となった民族代表33人はすぐに逮捕されたので、それ自体はある意味で静かな出来事でした。

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 しかし、発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、パゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進しました。道々「独立万歳」と叫ぶデモには次々に市民が参加し、数万人規模となったと言います。それくらい、独立を願っていた人々は多くいたのだということです。

 ここから韓半島全土に連鎖反応が起こっていきます。運動は初め朝鮮北部に波及し、その後南部に及びました。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開されたのです。3月から5月にかけてデモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る、非常に大きなデモに発展します。デモが多かったのは京畿道や慶尚南道、黄海道、平安北道などの地域でした。この平安北道はお父様の故郷でありますが、そこでも独立運動の為の万歳が多くなされたわけです。

 これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たりました。それにともなって各地で流血事件が起こったのですが、一番有名なのが「提岩里教会事件」(4月15日)です。これは京畿道水原郡の提岩里というところにあるキリスト教会に信徒たちを押し込めて、30名を銃殺して放火するという事件でした。

 この三・一独立運動は1919年に起きたわけですから、日韓併合の9年目に起きたことになります。9年間おとなしかったのに、急にこういうデモが起こったということで、日本の当局は大変衝撃を受けました。そしてデモは韓国の国内にとどまらず、シベリア、上海、米州に飛び火して、独立運動の儀式と祝賀が、世界中に散らばっていた韓国人の移民によって行われました。

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 これに対して日本政府はどういう動きをしたのでしょうか? 空前の挙族的蜂起に直面して武断政治に行詰まりを痛感した日本政府は、文化政治への転換を図って第三代総督に斎藤實(さいとう。まこと)という海軍大将を起用しました。彼は後に第30代内閣総理大臣となる人物でありますが、言論・結社の規制の緩和や学校の拡充を図り、文化政治を推し進めました。つまり、それまでは力で抑えていたのですが、反抗が起きたので、一種の懐柔策として、ある程度の自由は認めましょうという形でこれをなんとか抑えようとしたのです。しかし、三・一運動によって民族感情を刺激された人々は、国内外においてさまざまな主義主張・形態の運動を、このときから1945年の解放まで継続することになります。

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