書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』100


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第100回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 前回をもって第六章「四 統一教会における霊界の実体化」の分析と批判を終え、今回から「五 統一教会の祝福」における櫻井氏の記述に対する評価を始めることにする。櫻井氏は「1 祝福の原理的意味」において、「統一教会の信者にとって祝福こそ信仰生活における最大の秘蹟であり、祝福を受けないのであれば統一教会にいる意味はないといってもよい。」(p.301)と述べている。これは基本的に正しい見解なのだが、何事にも例外が存在することは確認しておきたい。統一教会の信者の中には、さまざまな理由により祝福を受けられなかったとしても、なお信仰を維持している人々が存在する。具体的には病気や障害のためであったり、高齢であったり、夫の反対が極端に激しい壮年婦人であったり、祝福を何度も受けたがうまく行かず、また受ける決意ができない者であったり、多様なケースが存在するが、だからといって彼らにとって統一教会の信仰を持つことは「意味のないこと」ではないのである。人が信仰を持つ動機はさまざまである。祝福は確かに統一教会の信仰の中核をなすものであるが、すべてではない。

 続いて櫻井氏は祝福の実態を紹介する書籍として、全国霊感商法対策弁護士連絡会、日本基督教団統一原理問題連絡会、全国原理運動被害者父母の会編著『統一協会合同結婚式の手口と実態』(緑風出版、1997年)を紹介している。この本は、拙著『統一教会の検証』(光言社、1999年)のなかで批判的に取りあげており、このブログの「文献資料室」においても同書に対する私の批判的見解を読むことが可能なので、関心のある方は以下のURLを参照していただきたい。
http://suotani.com/materials/kensyou/kensyou-6

 続いて櫻井氏は祝福の原理的意義を解説するために統一教会の教義を極めて大雑把に解説するのであるが、そこには誤りと誇張が含まれている。まず、「メシヤの司式による『祝福』『聖婚』後の『合同結婚式』によって、人類の原罪を贖うと説いた」(p.301)とあるのだが、ここには言語や概念の混乱が見られる。これではかつて「祝福」や「聖婚」と呼ばれていたものが後に「合同結婚式」と呼ばれるようになったと誤解される恐れがあるが、この三つの言葉はそれぞれ異なるものを指している。

 まず「祝福」はマッチング、聖酒式、蕩減棒行事、結婚式、三日行事などを含む一連のプロセスを総合した言葉であり、これらを通過すること全体を「祝福を受ける」と言う。一方、「聖婚」は文鮮明師夫妻の結婚に対する呼称として用いられ、一般の統一教会信徒が祝福を受けることを「聖婚」と呼ぶことはない。そして「合同結婚式」は祝福の構成要素の一つであり、親族やマスコミにも公開して行われる最もオープンな行事である。櫻井氏は統一教会の研究者を自称しながら、こうした基本的な用語の意味を正確に知らないようである。

 続いて、「統一教会が説く神の摂理とは、性にまつわる堕落を性に関わる特別な儀礼により解消するということに尽きるかと思われる」(p.301-2)と櫻井氏はまとめているが、これは過度の単純化というものであろう。確かに祝福にまつわる行事の意味の要約としてはそういうことになるだろうが、それは神の摂理の全体像を表現してはいない。もし櫻井氏の言うことが本当なら、統一教会は祝福の儀式のみを行う団体であるはずだが、実際の活動領域はそれよりもはるかに広い。櫻井氏はこの本の中で、統一教会の特徴を事業の多角化とグローバルな事業展開の二点にあるとみており、「宗教団体でありながらも、多種多様な事業部門を有する多国籍コングロマリット」(p.164)であると表現しており、宗教団体としては稀有なほどに多方面にわたる活動を行っていると自ら述べている。もし神の摂理が特別な性の儀礼によってのみ成就されるのであれば、こうした広範な活動を行う理由も意味もないはずである。櫻井氏の記述は矛盾に満ちており、ここでは統一教会の教義が性に対する異常な関心を持つものであるとの印象を読者に与えようとして、意図的にこのような歪曲された表現をしているものと思われる。

 櫻井氏は「2 祝福の過程」において、①写真マッチング、②約婚式、③聖酒式、④結婚式、⑤蕩減棒、⑥聖別期間、⑦三日行事、の順で祝福のプロセスについて解説しているが、この中にも多くの誤りが含まれている。

 まず、マッチングのプロセスに関しては、かつては実体マッチングであったものが最近は写真と書類が本部から信者に送られて来るだけであり、「一般的に断る信者はいない」(p.302)という極めて粗雑な描写がなされている。このあたりは、マッチングの実態をインタビューと参与観察によって調査したグレイス博士の研究『統一運動における性と結婚』(1985年)と比較することによって一層明らかになる。

 グレイス博士の著作によれば、アメリカにおける初期の実体マッチングの様子は以下のようなものであったとされる。
①文師は行事の最初にスピーチをしたのち、東洋人とのマッチングを望む白人のメンバーに対して前方に出てくるように指示し、各人に対して東洋人の相対者を一人ひとり「推薦」する。
②次に、白人と黒人のマッチングを望む者に対しても同じプロセスが進行する。
③二人が文師によって組み合わされると、彼らはボールルームを離れて隣接した部屋に行き、マッチングを受け入れるか否かを決定するために、15分から20分にわたって話をする。
④もし彼らが文師の選択を肯定すれば、ボールルームに戻ってきて、初めに文師の前に、次に聴衆の前に頭を下げることによって受け入れたことを示す。
⑤マッチングを拒否したわずかな者は、リーダーの一人にただその決断を告げて、再びマッチングを受けるためにボールルームに戻ってくる。(前掲書『統一運動における性と結婚』 第5章「祝福:準備とマッチング」より要約。)

 このように、たとえ文鮮明師によって推薦された相手を受け入れるように教育がなされていたとしても、実際にはそれを拒絶した人はいたのである。これはアメリカに限ったことではなく、日本でも韓国でも同様であったことを、私は周囲の知人・友人の例を通して知っている。

 さらにグレイス博士は、マッチングのあり方に関する歴史的変遷についても触れている。彼によれば、アメリカにおける相対者の選び方は、初期の頃はその選択を完全に文師に委ねるのではなく、自分が選んだ人を認めてもらったり、4~5名の候補者の写真を選び、それを文師に渡して最終的な選択をしてもらうということもあったと記述している。日本の祝福の証しでも、777双までは自分の希望する異性の名前を5名まで書いたという先輩の証しを聞いたことがあるので、日米ともに初期のころはそうしたやり方が存在していたことになる。また、文鮮明師が聖和された後は、信者たちは教会のマッチング・サポーターの推薦を受けることになるのであるが、以前に比べてかなり本人の意思が尊重されるようになってきているという。したがって長い目で見れは、相対者の選択を全面的にメシヤに委ねたマッチングのあり方の方が歴史的に見て珍しく、貴重なものと言えるのかもしれない。その意味で櫻井氏の「写真マッチング」の描写は、かなり時代的に限定された情報を誇張して表現したものと言えるであろう。

 次に聖酒式に関してだが、櫻井氏はその意味について「娘の立場から相対者の立場へ変わることの意味は、その女性信者が文鮮明の花嫁になったということである。これが統一教会でいう「血統転換」の中身であり、復帰されたアダムであるメシヤを霊的に迎えて一体化し、愛の因縁を元に返すという。」「一般信者が祝福に対して抱くイメージは、文鮮明の霊的種を自分が宿し、原罪のない子を生むという観念である。そうである以上、その後に実際どのような男性と結婚生活を送ろうと、ある意味関係がない。霊的にはメシヤと結ばれた身の上なのである。」(p.303)というような極論を語っている。

 彼が語っているのはあくまでも祝福の意味に関する神学的な解釈であり、それが個々の信徒にどのように受け取られ、実際に彼らの信仰生活や夫婦生活をどのように規定しているかとは別の問題であることは、社会学的には常識である。にもかかわらず、櫻井氏はあえてそのギャップを無視して、すべての統一教会員の女性がどのような男性と結婚しようと関係ないと思っていると断言している。これは実際に信仰生活を送っている現役の信徒たちを参与観察したりインタビューしていないからこそ吐ける暴言である。

 統一教会の女性がメシヤの前に花嫁の立場になり、将来の夫となる男性に対して母親の立場に立つのは、祝福を受けてから家庭を持つまでの限られた期間のみであり、家庭を持ったのちには、文鮮明師を父として慕いつつ、自分の夫との夫婦関係を充実したものとするために努力するというのが一般的な統一教会の女性信徒の姿である。生涯を共に過ごし、子供を一緒に育てるパートナーである男性がどのような相手でもよいと本気で思っている女性が実際にどのくらいいるのか、櫻井氏はきちんとした社会学的調査を行っていない。そのような信徒像は、教義の神学的表現から演繹された、彼の妄想にすぎない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク