実況:キリスト教講座48


自然神学と啓示神学(11)

 神の内在という考え方は、人間の基本的善性の強調につながり、原罪によって人間の性質が完全に腐敗しているとは信じておりません。ですから、これが行きすぎると汎神論に陥ったり、神秘主義的傾向を帯びたりするようになります。この「汎神論」とは何であるかというと、神と被造世界があまりに近づきすぎると、最後はその区別がなくなったり、曖昧になったりするということです。すべて神になってしまいます。すなわち、このコップも神、机も神、演台も神、私も神、あなたも神、みんな神、これを「汎神論」と言います。これはどう考えても間違いですね。近けりゃいいってもんじゃないんです。

 そして神学的には、神がそれほどまでに被造世界に浸透しているとすれば、どうして悪が生じたのかという神義論の問題が解決できなくなります。神と被造世界が一体なら、どうして悪があるのかが説明できなくなってしまうわけです。なんらかの距離がないと、悪が生じる余地はないですね。

 また信仰姿勢としては、神が直接人間に働くのだから、教会や司祭などを媒介としてなくても、直接自分が神に出会えば良いという思想に傾き、神秘主義や教権批判といった方向に向かいやすい傾向にあります。また、啓示の遍在性という思想の故に、「聖書」にしか神の啓示が現れないとする根本主義に反対することになり、エキュメニズムという、教派の壁を超えて対話をしようという運動に理解を示すようになります。

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 超越神と内在神をイメージで描くとこうなるわけです。内在神というのは、自分で直接神に出会えばいいんだということです。神は普遍的存在としてどこにもいるし、私の中にもいるんだから、わざわざ教会に行かなくても、わざわざ司祭様につながらなくても、わざわざ神父様に罪を告白して告解の秘蹟をしていただかなくても、自分が直接神につながればいいでしょということになるので、教会に行く必要がなくなっちゃうわけです。

 それに対して超越神においては、私は罪深いから直接神に出会えないわけです。だから教会や司祭は絶対に必要だということになります。すなわち、縦的な秩序があって、神様がみ言葉を下さって、そのみ言葉をつかさどる教会というものがあって、その教会を媒介としてはじめて私は神様につながることができるんだと考えるわけです。こういう秩序があります。ですから超越神の方が、自分は教会につながるべき存在だという考え方になるので、教会をむやみに否定したりしないわけです。ところが内在神の場合は自分が直接神に行ってしまうわけですから、むしろ教会は必要なくなってしまいます。

 神の超越性についてより詳しく解説します。超越性を強調する思想は、基本的に人間や自然の中にはいっさいの神性を見出すことはできず、神は被造世界から独立し、遠く離れたところにいるととらえます。すなわち、人間は罪にまみれているという悲観的な思想であり、生に対する否定的な思想であると言えます。極めて暗い人間観ですね。パウロ、ルター、カルビン、バルトなどの思想に色濃く現れている考え方が、この超越神であり、人間は罪深いという考え方です。パウロもルターもカルビンもバルトも、キリスト教の世界においてはみな超有名人です。キリスト教の神学における超有名人は、ほとんどが超越神を強調した人なんですね。ですから、キリスト教の神学全体がかなり超越神の方に傾いているといっても過言ではありません。

 この思想によれば、人間を含む被造世界は神からかけ離れているので、それらの中には神を見出すことはできません。したがって、自然神学は成り立たないととらえます。ここから「人間からは神に近づくことができないので、神の方から人間にアプローチしてこなければ人間には救いの道はなく、人間の救いは徹底的に神の恵みによるものである」という思想が生まれてきて、それが一番最初に説明した福音主義神学の大前提になるわけです。

 神の絶対超越性は啓示の必要性と結び付いており、イエス・キリストや聖書という啓示以外には救いの道はないと主張します。「神のみ言葉」と、それをつかさどる「教会」につながることなくして、救いはないと主張します。したがって、この地上の特定の政治運動と結び付いたりすることはないわけです。

 神の超越性という思想は、常に神の偉大性と神秘性を強調することによって、人間を謙虚にするという利点を持っています。そして、安易に時勢に流されないで、キリスト教信仰の本質に根を降ろした判断に信仰者を帰らせるという利点もあります。超越神信仰の本質は何であるかというと、常に神の恵みに感謝し、「神を恐れる」ということを知る信仰者を育てるということにあります。これが超越神信仰の神髄であるといえます。そういう意味では必要なことですね。箴言1章7節に「主を恐れることは知識のはじめである」とあるように、私たち堕落した人間は、神を恐れるという世界がないと、どうしても自己中心的な信仰に陥りやすいのだということになるわけです。

 統一教会におきましては、神は愛の親であると言っているわけでありますから、なぜ恐れる必要があるのかと思うかも知れませんが、私たちは神様の子女である前に、堕落した人間であるわけです。堕落した人間は罪を持っています。ですから神を恐れ、神の前にひれ伏し、罪深い人間でありながら恵みを与えられていることを感謝するという謙虚な姿勢がないと、信仰姿勢が間違ってしまうわけです。そういう意味で、この超越神信仰というのは、堕落人間にとってはどうしても必要なものだということになります。

 それでは、この問題に関する統一原理の立場はどのようになるのでしょうか? トマス・アキナスに代表されるスコラや、バルトに代表される新正統主義に比べると、統一原理は神の「内在性」がより強調された神学であると言っていいでしょう。これは「内在性」が良いといっているのではなくて、従来のキリスト教神学の神観が神の超越的側面のみを一方的に強調してきたために、相対的にそのように見えるのであって、実は両者のバランスの取れた状態が望ましいわけです。

 内在性も度を過ぎれば自己と神を同一視する独善や、分派・分裂に走る危険をはらんでいます。神様と自分が一つだということをあまりにも強調しすぎると、ときには自分が神になってしまったり、自分が教祖になってしまったりするわけです。一方で、超越性も度を過ぎれば、何でもかんでも恐れてただ従えばいいんだという考え方になると、教条主義や自己の主体性を放棄した盲目的・盲従的信仰に陥る危険があるわけです。ですから、どちらも度を過ぎてはいけないんだということです。

 しかし、バランスを取るといっても、実際にはある人の神観が超越的になるか内在的になるかは、その人の置かれている社会的環境に大きく左右されるという現実があります。たとえば、さきほど紹介したカール・バルトや福音主義神学の場合にはどうでしょうか? バルトの生きた時代というのは、まず第一次世界大戦で人間の罪深さというものが白日の下にさらされた時代でした。これはクリスチャン同士が互いに殺しあう惨状を見せつけられたということです。そしてその次にはヒトラーのナチスが出てきて、ドイツのキリスト教会を飲み込もうとして牙を剥いていた時代でした。すなわち、自分の周りの社会が気が狂ったような状況で、世相は暗く、本当に辛い時代、危機の時代に生きる人間というのは、この世の中に神が内在していると思うでしょうか? 思わないというんですよ。すなわち、あまりにも世の中が狂っているときには、神はここにいるとは思わないのであって、どこか遠いところにいるんだと普通人間は思うのであります。したがって、神のイメージは超越神になるわけです。

 逆に、とっても平和な時代に、のどかな田園風景の中で生活し、争いもなく、人間関係もよくて、食べ物も豊かにある恵まれた環境の中で育って、幸せなクリスチャンとしての生活を送っている神学者がいたとすると、その人はどういう神観を持つでしょうか? 神はどこか遠いところにいると思うかというと、普通はそう思わないのです。「神は私と共にいる。日々の生活の中に神がいる。夫婦関係の中に神がいる。隣人との関係の中に神がいる。この共同体の中に神がいる。そしてこの豊かな自然の中に神がいる」と思うわけであります。ですから、幸せいっぱいの時には神は内在すると考えるわけです。このように、神に対する感覚が超越的になるか内在的になるかというのは実は、その人が置かれている社会環境の影響を受けるわけです。そういう意味では、超越神か内在神かというような神学的内容も、その人が置かれた社会環境の産物という側面を持っているわけです。

 これは神学者だけではなくて、皆さんも同じです。皆さんの神観がこれまで言った中で、超越神に近いのか、内在神に近いのかのどちらかに偏っているとすれば、それは今まで皆さんが生きてきた人生であるとか、初期に出会ったアベルであるとか、いろんなものの影響を受けながら形成されたものであるということになります。

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