実況:キリスト教講座34


統一原理の神観について(8)

 カトリックには聖母マリヤを慕うという伝統がありますが、聖母マリヤは神学的には神ではありません。カトリックの神学は男性中心主義だと言うわけでありますが、実はカトリックの信仰の中身を見ていくと、聖母マリヤに対する信仰というものは、神学的にはもちろん神そのものではありませんが、信徒たちの信仰生活においては女性神と同じような役割を果たしてきたということができるわけです。すなわち、表向きの神学では神の中に女性的な性質というのは認めていないんですが、神様の中に女性的な要素を求めるというのは人間の本性から来るものであるわけです。ですから、神が男としてのみ表現されていると、どうしても満足できないわけです。神様の中に女性的要素が欲しいと感じるわけでありますが、伝統的な神学では神は男なので、それを補うかのような宗教的表現を生み出すわけです。カトリックにおいては、その役割を聖母マリヤが果たしているわけです。 

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 ですから、教会のイコンや聖画などで、よくこのような像を見たことはありませんか? 聖母マリヤがいて、この幼子がイエス・キリストですよ。このような聖母像というのはキリスト教においてはたくさん描かれています。ですから、イエス・キリストは子供として描かれていて、それよりもさらに大きな存在として聖母マリヤが描かれているので、信仰生活上の実感としては、ほぼ女神に等しいという立場で聖母マリヤが扱われていることが分かりますね。

 これは要するに、二性性相の神というのが本来の姿ですね。しかし、神学的には女性部分は削り取られているわけですよ。でも本性としては女性を求めているので、なにか女性的な表現が欲しいわけですね。ですから聖母マリヤの中に女神のイメージを投影して、マリヤを神に近い位置にまで高めて、ほぼ女性神として崇めているに等しいような状況にカトリックの信仰というものがなっているということなんですね。

 東大の宗教学の先生で田丸徳善先生という方がいらっしゃって、私はその方からとても面白い話を聞いたことがあります。フランスやイタリアに行きますと、カトリックの大聖堂があります。ヨーロッパのカトリックの大聖堂で典型的なのは、だいたい細長い形をしておりまして、一番奥の中央に十字架が掲げられています。これが主祭壇といって、中心的なミサを行うところです。しかし、カトリックの礼拝堂では祭壇が一個だけあるのではなくて、両脇に祭壇がたくさん並んでいるんですね。そこに地元の聖人だとか、天使だとか、いろんなものがまつられているんです。そして、聖人ごとにいろんな願い事をかなえてくれるという話があって、そこにロウソクを捧げて、願い事を聞いてくれるように祈るというような習慣があるんです。そういうのを見ると、これ本当に一神教なのかな、なんだか多神教みたいだなという感じがするのですが、その中の一つに聖母マリヤの祭壇というのがあるんですよ。

 その大聖堂の中央の主祭壇の前で神父さんがミサをやっているですが、そこには人がパラパラとしかいないというんです。しかし、ある祭壇の周りには人がそれよりももっとの大勢の人が群がっていて、ロウソクがたくさん捧げられて、みんな熱心に願い事をしているというんです。田丸先生が、あれは何だろうと思って近づいてみると、それは聖母マリヤの祭壇だったというんですね。中央のミサをやっている司祭のところよりももっと多くの人がマリヤ様のところに群がっているというんです。ですから、ある意味ではイエス様よりもマリヤ様の方が人気があるんです。つまり、マリヤ様の方が優しそうだ、許してくれそうだ、慰めてくれそうだ、願いを聞いてくれそうだということで、いわば母性や慈愛を求めてそこに人が群がっているという状況があるんです。ということはもう、ほぼキリスト以上の女神になっているんではないか、というくらいにカトリックにおきましては聖母マリヤが崇敬の対象になっているということなんです。

 カトリック教会には「母なる教会」というイメージがあって、その中心はマリヤ様ということになるんです。特に私たちは罪深い堕落人間でありますので、厳しいお父さんのところよりは優しいお母さんのところに行きたいという思いが強いもんですから、女性的側面を心から求めているわけです。

 そういうことから、人間の宗教的経験からして、父母としての神を求めていることが分かるわけです。カトリックの場合には、神学的には神は男性だと言っておきながら聖母マリヤで女性神を表現するというような、ちょっと歪んだ形で表現されているわけですけれども、統一原理の場合には、神様の本体が父母なんだとハッキリと言っている、ということなんです。

 もし神が親であり、それが父親としての側面しかもたないなら、人類はみな片親しか持たない子供になってしまいます。家庭においては、父親の厳愛と母親の慈愛のバランスによって子供が健全に育つわけでありまして、人間は親の愛として父の愛と母の愛を両方求めています。もし本当に神様が親であるというならば、父の愛と母の愛の両方が完全に表現されていなければなりません。すなわち、神様の愛にも父性的な愛と母性的な愛の両方が必要だということになるわけです。だとすると、神様を男性としてしか表現していない既存の神学は片手落ちだということになります。

 統一原理は、完璧に男女両方の性質を有する唯一神を提示しています。すなわち神様ご自身が陽陰の二性性相の神なんだということをハッキリと言っています。その意味で極めて画期的な神学であるということができます。

 さて、この陽陰の二性性相とフェミニスト神学の関係ということでありますけれども、このフェミニスト神学というものは、神様の女性性を発見した、あるいは強調したという点においては、現代神学の中で原理に一歩近づいた現象であるということができるかもしれません。しかし、統一原理が直接フェミニスト神学の影響を受けたということではありません。なぜなら、両者は発生した時代も国も異なっているからです。

 フェミニスト神学自体は1960年代の後半から、主に先進国であるアメリカで、ウーマンリブ運動の高まりの中で広まっていった神学であります。それに対して統一原理は、もっと早い1950年代から、およそウーマンリブとは関係のない韓国の地において生まれたということでありまして、直接の関係があるわけではありません。これはどういうことであるかというと、統一原理というのは最終的な神の啓示であるので、完全な神の姿を示しているということになるわけであります。それに対してフェミニスト神学というのは、最終的な神の啓示である統一原理の一部を断片的に証しする現代神学の現象の一つでしかない、ということになります。すなわち、現代神学がどこに向かって進歩しているかというと、乱暴な言い方をすれば、ゴールとしての完全な神の啓示に向かって進歩しているということになりますから、現代神学のいろんな要素が、原理の一部を反映したりしていることがあるわけです。たまたま、フェミニスト神学の場合には神様には男性的側面だけじゃなくて、女性的側面もあるということを強調することによって既成の神学を修正して、原理に一歩近づくようになったといっても過言ではないということなんです。

 むしろフェミニスト神学よりも過激な主張も、統一原理の中にはあるわけです。それはなにかというと、原理は神様に男女両方の性質がなければならないと言っているだけではなくて、メシヤもまた男一人ではメシヤになれない、ということを言っているんです。つまり、男女ペアでないとメシヤになれないんだと言っているんです。ここまではさすがにフェミニスト神学も言えないわけです。イエス様は独身の男性であり、結婚していませんからね。統一原理ではメシヤとは「真の父母」であるといっているわけですがら、ある意味では徹底した男女平等思想であるといえるわけです。そうなりますと、フェミニスト神学の主張よりもさらに一歩進んでいるのが統一原理であるということが分かります。

 陽陰の二性性相という観点から統一原理を既存の神学と比較すると、このようなことが分かってきます。

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