実況:キリスト教講座49


自然神学と啓示神学(12)

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 超越神と内在神というのは大きく分ければ、福音派の人たちは超越神的信仰を持っていて、リベラルな教会の人たちは内在神的信仰を持っていると言えるんですが、実は一人ひとりの神観でもあるわけです。同じ教会に属していても、どちらかといえば超越的な神観を持っている人もいれば、内在的な神観を持っている人もいるわけです。これは統一教会においても同じです。統一教会の中でも超越神的な信仰観を持っている人もいれば、内在神的信仰観を持っている人もいて、人の生き方はさまざまだということになります。

 統一教会の中で内在神を信じる自由主義派の人は、「アベルに何か聞くよりも自分の本心に聞くのが一番なんだ。自分の心に神様が働くんだ」という固い信念をもって、あんまり人の言うことを聞かないで極めて主体的に歩む人がいますよね。そういう人は統一教会の中でも内在神を信ずるリベラル派の食口ということになります。(笑)ところが、「自分は罪深い。自分が人間的に考えて何かやると絶対に導かれない。だから教会につながって、中心性を立ててアベルの言うことをその通りにやったら神が働いた」という信仰観の方もいらっしゃいますね。私と神様は直接出会うことはできなくて、必ずこの間に媒介として「アベル」がいて初めて神様につながるんだという価値観を強く持っているということです。こういう人は統一教会の中にあってもより福音派の信仰に近い、超越神の信仰を持った人だということになるわけです。(笑)このように、一見違った教派の神観というように解釈できるものが、実は一人ひとりの異なる神観でもあるわけです。ですから、神学というのは観念的なものではなくて、信仰観そのもの、生き方そのものを表現したものだということになります。

 そのように考えてみますと、この自由主義の「内在」というのは良いようで悪い側面もあるわけです。つまり、自分の本心だけを信じてもらっても、教会の中でいろんな問題を起こして困るわけですよ。内在神をあまりに強調すると、極めて自己中心的な信仰に陥りやすいということも警戒しなければなりません。ですから、私たち個人の信仰生活において、この超越神と内在神の両方の神観をバランスよく持っていなければならないわけです。このどちらの神観をより強く持っているかは、皆さんの生い立ちとか、いままで教会で出会った人の影響によって、いまの自分が形作られているということです。それをもう一度反省して、自分のあるべき信仰の姿というものを求めていかなければならないということになります。

 結論的に言いますと、統一原理は極めてバランスの取れた神学であるということです。福音主義と自由主義の両方の立場を包含するような、幅広い内容を持っています。たとえば、福音主義や啓示神学を最初の部分で批判的に扱いましたけれども、「原理講論」の中に啓示神学的な要素がないのかというと、実はあります。その代表が「原理講論」の一番最初の「総序」の37ページに出てくる、以下のような文章です。

「このように、人間を生命の道へと導いていくこの最終的な真理は、如何なる教典や文献による総合的研究の結果からも、また如何なる人間の頭脳からも、編み出されるものではない。それ故、聖書に『あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、予言せねばならない』と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、われわれの前に現れなければならないのである。」

 この部分は啓示神学そのものですね。「如何なる人間の頭脳からも、編み出されるものではなくて、まさに神の啓示によって!」ということですから、人間の知恵ではなく神の啓示だということが高らかに宣言されているわけです。この部分だけを抜き取って読むと、「原理講論」というのはまさに啓示神学であり、極めて福音主義的な書物だという印象を受けます。これが「原理講論」の総序の最後の部分でありますから、極めて福音主義的で啓示神学的なトーンで総序は終わるわけですね。ところが次のページを開いて創造原理に入ると、「被造物を観察することを通して神が分かる」と書いてあるわけですから、創造原理の最初はいきなり自然神学から始まるわけです。ですから、「原理講論」をそういう観点から読んでみると、ここは自然神学でリベラルだなと思われる部分と、ここは啓示神学で福音主義的だなと思われる部分が、同じ「原理講論」の中に混在しているわけです。ですから、両方の要素を兼ね備えているということなんです。にもかかわらず、全体として矛盾があるのではなく、首尾一貫しているわけです。

 すなわち、原理というのは一見矛盾するかのように思われる両極の考え方を統一して行く思想であるわけです。ですからいままで言った「自然神学」対「啓示神学」であるとか、「福音主義」対「自由主義」とか、「神の超越」対「神の内在」といったような、一見相反するような考え方を、全部抱き込んで一つに統一していく、とても器の大きな神学が、統一神学なのだということです。このように「啓示神学と自然神学」という切り口を通して原理の内容を見てみたとしても、私たちの知らなかった原理の奥深さというものが分かるのではないかと思います。

 最後に「神学的バランス」という話をさせていただきたいと思います。この話は、私が統一神学校で組織神学を学んだときに、最初に神明先生という方が教えてくださった内容でありました。

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 この図を見てください。神学には二つの構成要素があり、それを「状況」と「使信」と言います。神様が下さった「使信」、これを英語では“Message”と言いますけれども、啓示とかみ言と同じ意味です。それに対して「状況」、これを英語では“Situation”と言いますけれども、私たちが具体的に置かれている事情や環境のことです。この「使信」と「状況」が相互作用をして、その中で私たちが神様のメッセージをどのように受け止めるべきかという学問的営みを「神学」というわけです。ですから、神様のメッセージと私たちの生きている事情や環境というものをいかに合わせていくか、その中で神様のメッセージをいかに正しく受けとっていくか、ということを探究するのが神学であるわけです。

 この「状況」と「使信」のバランスを取る上で、どちらにより近づくかによって立場が異なってくるわけです。ややもすると私たちは、状況に関係なく、「これが啓示だ!」と言って、み言だけを振りかざすことがあります。こういうのを「教条主義」と言います。逆に、「み言はそうなんだけれども、私の事情はこうで、環境はこうなんだ」ということを主張して、み言を自分の事情や環境に合わせて勝手に解釈することもあります。人間というのは、都合のいいように解釈したがるんですね。そうすると、み言葉が本来伝えたい内容をねじ曲げて、自分なりの解釈をすれば、分派とか分裂を引き起こして、自分勝手な信仰になってしまいます。あるいは、「み言はこうなんだけれども、いまの地の事情はこうだから、こうやった方が戦略的にうまく行く」ということで、方法論に走って本質を失ってしまうということもあり得ます。地上において広まることが重要だということで、方法論を優先すると、本来み言が伝えたかった内容を見失って、世の中から受け入れらることばかりを考えてしまうということです。

 私たちは、「状況」から逃れることはできません。したがって、自分は「状況」の中にいながら、いかにして神の啓示をその如くに受け取って、その神様のみ言がこの地上の具体的な事情環境の中で生かされ実現されていくのか、それを真摯に求めるために何よりも必要なのは、謙遜な姿勢と祈りであるということになります。すなわち、自分勝手にみ言を解釈するのではなくて、謙遜になって、神様のメッセージを正しく受け止めていこうという姿勢を持ち続けることが重要です。

 神学にはバランスが必要であります。統一原理というのは、これまで言ったような両極の考え方を包括して余りあるバランスのとれた体系であるということができます。皆さんは是非、幅広い理解をもって原理の価値というものを悟っていただきたいと思います。

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