韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ03


 前回は「三・一独立運動」について解説し、それに対して日本政府が取った「文化政治」までを説明しました。すなわち、1919年までは「武断政治」といって力で韓国人の抵抗を抑えていたのですが、三・一運動以降は言論・結社の規制の緩和や学校の拡充を図るなど、ある程度の自由を認める形で懐柔しようとしたのです。

 日本政府がこの文化政治を行うことによって生まれたのが、「親日派」と呼ばれる人たちです。この人たちはより現実的な思考をした人たちであって、独立運動を継続しても、到底日本の統治を脱することは不可能であると自覚して、産業の発達や教育の振興に尽くして、民族自立のための基礎的発展を遂げ、実力を養成しようと考えました。その親日派の代表が、李光洙や崔南善といった人々でした。

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 実は李光洙は「二・八独立宣言文」を書いた人ですし、崔南善は「三・一独立宣言文」を書いた人です。こうした独立運動の指導者自身が何と言いだしたかといえば、「武力や抗争による独立は不可能である。独立は日本によって遂行しなければならぬ。」「民族のために親日するのである」と言ったわけです。つまり、「いまの韓国人の実力ではとても独立なんてできないんだ。日本の下でもっと実力をつけない限り独立は果たせない」と言って、むしろ積極的に日本と協力する人々が出てきたわけです。こういう人たちのことを「親日派」と呼びます。当時の彼らの意識としては、おそらく愛国心に基いて「親日」したんだと思います。ところが今日の韓国では、彼らは「変節した」「裏切り者である」と評価されています。今日の韓国では「親日派」といえば犯罪者のように考えられています。

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 それではほかにどんな運動があったかと言えば、朝鮮共産党の結成がありました。1918年6月に、李東輝らがハバロフスクで韓人社会党を結成します。その李東輝が大韓民国臨時政府に参加したことから韓人社会党は拠点を上海に移し、1921年に「高麗共産党」に改称します。そして1925年4月18日には、韓国内で朝鮮共産党が結成されます。しかし、それとまったく同じ月に「治安維持法」が公布され、共産党員の大部分が検挙されてしまいます。これによってできたばかりの朝鮮共産党は壊滅的な打撃を受けます。事後、4次党まで共産党の再建が試みられましたが、治安当局の大検挙を受けて崩壊してしまいます。ですから、韓国の国内においては共産党は日本当局の徹底的な弾圧によって潰されてしまったわけです。ところが、その中心人物である李東輝は、上海の独立政府に加わって、大きな影響を与えるようになっていきます。

 そうした中で、「新幹会」(1927~1931)という組織が生まれます。1920年代の朝鮮では、民族主義者の間で「妥協派」と「非妥協派」の分裂がみられるようになっていました。前者は朝鮮総督府の統治下で自治の実現を目指そうとするものであり、後者はあくまで総督府を否定して独立を達成しようとするものでした。後者に属する安在鴻(안재홍)らは、同じく総督府との一切の妥協を望まない共産主義勢力との連携を模索するようになり、両者が結びついて「新幹会」が発足しました。ところが、だいたい共産主義勢力と協力しようとした団体は、それに乗っ取られるようになっているのです。やがて「新幹会」は共産主義者に乗っ取られ、左翼団体に変容しました。結局、運動内の左右対立によって、「新幹会」は1931年に解散してしまいます。

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 このころから独立運動の中で、テロ行為が行われるようになります。テロ闘争の代表的な組織が「義烈団」でした。これは1919年11月10日に朝鮮独立活動家の金元鳳(김원봉)を中心として結成された民族主義的な武装テロ組織です。この人たちは、三・一運動の非武装路線を「なまぬるかった。武器を持たずに万歳だけやっても独立なんてできっこない」と批判しました。三・一運動が鎮圧されて失敗した後に、国外での武装闘争を模索していた金元鳳ら13名によって、「義烈団」が吉林省で結成されました。

 このように「非暴力運動」ではなく、武力闘争を中心とする民族主義的な独立運動が起こってきます。義烈団は正義と猛烈を朝鮮独立精神の基軸に置き、「日本帝国主義の心臓部に弾丸を撃ち込む」必殺主義を掲げました。彼らは暴力を唯一の手段とすることを誓約し、ソウルと東京での暗殺を目的に活動しました。義烈団は、釜山警察署などの警察機関を爆破(1920年)したり、朝鮮総督府爆破を実行(1921年)したり、上海へ立ち寄った田中義一陸軍大将狙撃未遂事件(1922年)を起こしたりしました。こういう人たちはいまでも韓国で「英雄視」されています。主権を奪われているのだから、テロは悪くないという考え方です。ちなみに、金元鳳は解放後、北朝鮮にわたって幹部になっています。

 これに対して日本がどのように対処したかといえば、徹底的な同化政策の強化によって抑え込んでいきます。1931年9月に満州事変が起こり、1932年3月に満州国が成立すると、日本は「文化政治」から再び「武断政治」へと方向転換するようになります。

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 1936年8月に第七代総督・南次郎が着任すると、同化政策が強行されるようになりました。具体的には、官製以外の韓国人の団体は、解散させられました。日本政府が主導して作った韓国人団体以外は認められなくなったのです。そして皇民化運動が進められ、日本語が公用化され、創氏改名が行われました。このような凄絶な弾圧策によって民族文化は窒息し、非妥協の消極的抵抗さえ困難になったので、すべての運動は地下に身を隠し、逮捕を免れる道を探すしかなくなりました。ですから、少なくとも朝鮮半島の内部では日本の徹底的な弾圧と統治により、ほぼ独立運動はできない状態にまで追い込まれていったということになります。このころからは外国における運動、海外に避難した人々の独立運動しか生き残れない状態になっていったのです。

 その海外における独立運動の中心が「大韓民国臨時政府」でありました。これは三・一独立運動の後に、海外で独立運動を進めていた活動家らによって、中華民国の上海市で結成された臨時政府のことです。「三・一運動で独立を宣言したからには政府がなければ恰好がつかぬ」という論が盛り上がって、各地の独立運動の闘士たちが上海に集まって、4月13日に「大韓民国臨時政府」の成立を宣言しました。これは三・一運動が起きてから一か月半足らずのことでした。これは初めは上海にあったので、「上海臨時政府」と呼ばれていたのですが、日中戦争勃発後は所在地を転々と移動し、最終的に重慶に落ち着きました。

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 上の地図にあるように、上海→杭州→鎮江→長沙→広州→柳州→綦江→重慶と目まぐるしく移動していますが、これは日本の治安当局の捜査と中国国内の戦乱によって場所を転々とせざるを得なかったということです。

 この臨時政府の位置づけなんですが、韓国の主張と国際的承認の間には齟齬があります。現在の韓国政府は、大韓民国臨時政府の正統性を主張しており、大韓民国憲法の前文には「我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し…」と書かれているのです。しかし、韓国の憲法にも書いてあるこの主張は、国際的に認められていません。すなわち、連合国からも枢軸国からも、韓国は第二次世界大戦の参戦国として認められることなく、サンフランシスコ講和条約への署名も認められませんでした。その当時、この大韓民国臨時政府を承認した国は一つも存在しなかったということなのです。

 これは韓国にとっては大きな問題であり、このことの故に、日本に対する戦後補償の要求を「連合国」側に立ってすることができなかったのです。韓国の側には、自分たちはちゃんと「臨時政府」を作って連合国側で日本と戦っていたのだという自意識があるのですが、それを国際社会が認めてくれないことが韓国人にとっての「恨」になっているのです。

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