韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ06


 金九を中心とする独立運動がどうしてもやりたかったことは、独自の軍隊を持つことでした。韓国独立運動が組織した軍隊を「光復軍」と言います。1940年と言えば、第二次世界大戦が終わる5年前のことです。このころに、金九が「韓国光復軍」を組織して蒋介石の中国国民党政府とともに抗日活動を行うようになります。大韓民国臨時政府が重慶にあった頃のことです。

 そもそも韓国が独立を果たすには、日本の軍事力を撃破しなければならないわけですが、そのためには「臨政」の軍隊が必要です。他国の軍事力に頼って独立しても、結局はその国の支配下に入ることを余儀なくされて、真の自主独立は望めません。自力で解放してこそ、真の独立が叶えられるのです。そこで「臨政」は、在華韓国軍人を集めて「光復軍」を創設することを決議しました。これがどういう意味かと言えば、当時は日本軍の中に血統的には韓国人である軍人がいて、彼らは「日本兵」という立場で中国で戦っていたわけですが、祖国に対する愛国心はあるので、そういう人々をスカウトして「光復軍」を作るという意味です。これを蒋介石総統が認めて、臨政の創軍を認めたわけです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT06-1

 実はこのときが「臨政」が国際的な承認を得ることのできる絶好のチャンスでした。

 1941年に中国の国民政府野中で「臨政」を正式政府として承認する動きが高まりました。蒋介石には「臨政」を認めようという気持ちがありました。もし中国が臨時政府を承認すれば、同じ連合国側にある英・米・ソも承認せざるを得なくなります。そうすれば「臨政」と「光復軍」は連合国の戦列の一員とみなされて、戦勝の暁には容易に主導権を行使して独立への道を歩むことができると考えられたわけです。その意味で、この「光復軍」の創設と「臨政」の承認は、韓国独立運動にとっては非常に重要なポイントだったのです。

 しかし、ここで茶々が入ってしまいます。現在の「臨政」が承認されれば、そこから分裂した民族革命党や朝鮮民族解放同盟(いずれも共産主義の組織)は冷や飯を食わなければならなくなるので、共産主義者たちは中国政府が「臨政」を認めないように徹底的な妨害工作を開始したのです。すなわち、「臨政は挙国的な統一政府ではなく、一部の党派だけで作ったものだから、承認を保留にすべきだ」と蒋介石や中国政府に進言したのです。そこで中国政府はやむなく承認を延期し、韓国人の紛争を静観することにしました。

 アメリカの議会でも承認の動きがあったのですが、中国が見送るとこれも諦められ、「臨政」はついに大国の承認を得ることができませんでした。したがって、1945年に戦争が終わって、故国に帰るに当たっては、「大韓民国臨時政府」という国際的承認の下で帰ったのではなくて、私人の資格で帰らざるを得なくなりました。ですから祖国が解放された後に、独立運動家たちは「臨政」としての発言権を失って、政治的中心勢力として活動する機会はなかったのです。

 しかも、一生懸命に努力して「光復軍」を創設し、一度でも日本と戦ったという実績を残したかったんですけれども、最終的に「光復軍」は戦機を逸してしまいます。1944年3月1日、第25回三・一運動記念日に盛大な式典を挙行して、駐米外交委員部代表・李承晩の声明を発表して、韓国民主共和国の創立と対日宣戦を決議しました。参戦したか否かが、戦後の発言力を左右するからです。彼らは「私たちは国を持っているんだ、日本と戦ったんだ」という歴史を残したかったわけです。

 1945年6月と言えば終戦直前のことになりますが、このときに金弘壹という人が蒋介石と交渉して、光復軍に対する臨時政府の総帥権を確立しました。そして中国軍の、王耀武兵団長と合作して光復軍は第74軍と共に武漢奪還作戦に参加することを計画しました。これがもし実行されていれば、「臨政」の下にある「光復軍」が日本との戦争で具体的に戦ったという実績を残すことができたはずでした。そうすれば、「自分たちは連合国の一員だった」と言えなくもないわけです。しかし、訓練した韓国光復軍が実際に戦闘する準備を整えたまさにそのときに、8月15日の終戦を迎えてしまったのです。結局、戦うことなく終わってしまったのです。

 終戦に際して金九は次のように言っています。「嬉しいどころか、天が崩れた感じであった。苦心惨憺の努力を費やして参戦を準備したのに、すべてむだとなったのだ。・・・せっかくの苦労が勿体ない気がしたが、それよりも心配だったのは、われわれがこの戦争でなんの役割も果たさなかったために、国際的な発言力が弱くなるだろうということだった。」

 そして金弘壹将軍は以下のように述べています。「日本の敗北は目に見えていた。・・・嬉しければ嬉しいほど、私の心の片鱗がうつろになる。ついにわが光復軍は、連合軍の一員となって日帝と戦う機会を永遠に失った。日帝は敗亡したが、わが国の将来はどうなるのだろうか、という不安感が胸をさいなんだ。」

 こうして、「臨政」の26年間の光復の努力は、実ることなく終わりました。韓国には何らの発言権も与えられず、大国の勝手に任されるようになりました。軍事力で寄与しなかった者には国際社会は発言権を与えようとしない、というのが現実でした。

 韓国を占領した米軍からは「ソウルには米軍政府がある。2つの政府は不必要だから、臨時政府としての入国は認めない。また光復軍としての入国も認めない」と通達してきました。「臨政」の独立運動家たちは仕方なく個人の資格で帰国することにしましたが、これで26年間も独立の法燈を守り続けてきた辛苦がすべて無に帰したのです。法燈が消えることにより、韓国には政治活動を指導する中心勢力がなくなってしまいました。

 もし連合国が「臨政」を認め、国際的承認のもとに韓国に帰ってきたならば、この「大韓民国臨時政府」がそのまま解放独立後の政府になっていたはずです。ところが、「臨政」と戦後の韓国の政治は分断されてしまったのです。ただ憲法で、現在の政府は「大韓民国臨時政府の法統を受け継ぐ」ものであると宣言しているという状態です。

 それでは光復後の金九はどうなったのでしょうか。1945年の光復後、朝鮮を占領した連合国は軍政を敷き、「臨政」を朝鮮の正式な亡命政府として承認しなかったので、「臨政」最後の指導者であった金九が、独立した大韓民国の初代大統領になることはありませんでした。しかし、それでも彼は独立運動の実績から、米軍軍政庁統治下の南朝鮮において有力な政治家の一人であり続けました。

 冷戦激化の影響から、朝鮮はソ連占領下の北朝鮮と米国占領下の南朝鮮とで分裂が深まり、アメリカ政府は自国軍の軍政下にある南朝鮮だけで独立政府を樹立する方針で動き始めました。このときから南北分断は固定化され始めました。

 そのような中、米軍軍政庁は南朝鮮単独で国会議員の選出総選挙を準備し始めますが、金九は南朝鮮だけでの単独選挙実施に反対し、あくまで南北統一を進めるべきという立場から活動しました。彼はわざわざ北まで行って金日成と会ったりしますが、結局は決裂して帰ってきます。金九のこの活動は、反共姿勢を優先する李承晩らとの確執を深め、彼は李承晩の最大の政敵とみなされるようになりました。

 金九の最後がどのようなものであったかというと、1949年6月に面会と称してソウル郊外の自宅を訪れた33歳の韓国陸軍少尉・安斗煕に短銃で射殺されました。これは李承晩の指示で暗殺された可能性が非常に高いです。安斗煕は現場で逮捕され、無期懲役の判決を受けましたが、わずか1年後には特赦されて韓国軍に復帰し、李承晩の庇護のもと中領(中佐)にまで昇進しました。そして1992年、安斗煕は金九の暗殺は李承晩の部下の金昌龍の指示であったとする証言を出版しました。

 それではこれまでの流れを総括して、「臨政」とは何だったのかを考えてみましょう。『韓国独立運動の研究』の著者である佐々木春隆は以下のように言っています。
「一言で表現するのは至難の業である。『臨政』が三・一独立運動の法統を守った、あるいは門札を掲げ通したと評価できるとしても、別にそれが解放を促進した一臂の力となったわけではない。だから、外国人の物差しでは、その功の計りようがない。けれども、8・15解放を迎えた韓国民がまず想起したのは、独立精神の法統を守りぬいた『臨政』であった。韓国民は、『臨政』の偉い人たちがやがて還国し、中心となって自由かつ統一された国家を築き上げてくれるであろうと期待した。名分を重んずる韓国民はすべてそう意識したに違いない。」(p.340)

 「臨政」が存在したことによって、韓国の独立に具体的に貢献したかといえば、そう言うのは厳しいわけです。しかし韓国人としては、あれだけ日帝にやられて植民地支配をされた中で、「臨政」で独立国家を叫びながら、その法統を絶やすことなく頑張り続けた偉い独立運動家の先生方がいたということが、心の燈火となって戦後「大韓民国」という国が建てられたのであると解釈をして、憲法にそのことを書き込んだという話なのです。

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