ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳11


第2章(4)

 最初の罪または原罪は、アダムとエバが第一祝福を完成する前段階の「長成期完成級」にさしかかったときに発生した。理想的には、
「アダムとエバは、共に完成して、神を中心とする永遠の夫婦となるべきであった。ところが、エバが未完成期において、天使長と不倫なる血縁関係を結んだのち、再びアダムと夫婦の関係を結んだためにアダムもまた未完成期に堕落してしまったのである。このように、時ならぬ時にサタンを中心としてアダムとエバとの間に結ばれた夫婦関係は・・・」(注35)

 この理想は実現されなかったので、アダムとエバは第二祝福を成就することができなかった。人類を幸福と満足へと導くはずであった神に向かう愛ではなく、アダムとエバの愛はサタンを中心としていた。この「堕落した愛」が、彼らおよびその子孫たちにもたらしたものは、苦しみと不満だけであった。

 愛の概念は堕落を理解する上で極めて重要であり、それは運動の文献において徹底的に定義されているわけではないが、原理講論における愛は特定の種類の欲望、すなわち一体化に対する欲望であるように思われる。未熟なエバは自己中心的に愛を理解したようである。彼女にとって愛とは肉体的欲求をすぐに充足させることを意味した。したがって、サタンとの一体化は性的なものであった。さらに、彼女は神との関係においても十分に成熟していなかったので、この性行為は「非原理的な愛」に基づくものであり、神の戒めを無視した一体化の欲望であった。おそらくアダムの罪も同じ未熟な欲望に基づくものであった。

 堕落が可能であったのは、アダムとエバが原理によって神から間接的な主管を受ける成長期間にいたためであった。(注36)この期間において、原理の力よりも強い唯一の力が愛であった。神の創造目的はご自身の愛による主管を確立することにあったので、神は愛を最も大きな力として創られ、アダムとエバが非原理的な愛を自由意志によって選ぶのを防ぐために、善悪を知る木の実を食べてはならないという戒めを与えたのであった。もし彼らが神の意思に従って完成していたならば、彼らは神と「一つ」となり、罪を犯すことができないように(それを望まないという意味において)なっていたはずであった。

 愛によって願われる一体化は、原理講論においてははっきりと表現されていない。創造の教義においては、被造物が神の女性格対象であることを強調しているので、愛の一体化は「存在論的」なもの、すなわち存在の一体化であるようにみえる。しかしながら、四位基台についての説明では神、自己、他者、そして世界の一体化は本質的に「機能的」なものであり、存在間の精神的、知的、道徳的、美学的な調和が強調されている。この後者の見解が運動の神学の意図であるように思われる。メンバーたちの多くは神学的に鋭敏であったが、彼らに対するさまざまなインタビューにおいて、強調点は一貫して機能的な一体化に置かれていた。さらにまた、イエスも再臨主も神と同一ではない。むしろ、彼らは完成した存在であり、その愛が神の愛と同じなのである。

 アダムとエバの罪によって堕落した愛の性質が何であれ、堕落の結果は原理講論に明確に示されている。アダムとエバが神に向けるべきであった愛、そして四位基台を基盤として善なる理想世界を築くべきであった愛は、サタンへとその「方向を誤って」しまった。その結果として、「偽りの四位基台」(注37)が造成され、天使長との授受作用によって、悪と苦しみが世界に入り込んだのである。(注38)さらに、アダムとエバは、サタンとの「血縁関係」により、神の子女としての自らの地位を失い、いまやこの世の「神」であり支配者であるサタンの子女となってしまったのである。神はご自身の子女が天使たちおよびすべての被造物を主管することを意図された。堕落によってこれが逆転した。サタンが人間と天宙を支配するようになったのである。

 堕落は、人間を神から遠ざけてサタンとの不倫なる関係へと導いた、誤った愛に根差しており、基づいている。堕落の動機としての非原理的な愛は、運動のその他の資料にも表現されている。メンバーとのインタビューにおいては、堕落の動機に完全に集中するあまり、最初の罪の行為としての性交が二次的な問題となってしまうという結果をもたらす傾向があった。あるインタビュー対象者は、最初の罪の行いは殺人やその他の明らかに原理に反する行動でもあり得たと示唆した。

 この動機の強調は、「善と悪は、ある行為や結果それ自体において直ちに決定されるのではなく、その動機と方向と目的が神のためのものであったか、サタンの目的を指向したものであったかによって決定される」(注39)と述べる統一教会の道徳論と一致する。しかしながら、動機「そのもの」は論理的に十分な堕落の説明を構成しないと信じるに足る理由がある。エバとサタンの性的結合は、方向性を誤った自己中心的な愛から起こったものではあるが、原理講論およびその他の資料によれば、それ自体で意義があるのである。アダムとエバがサタンとの間に成立させた血縁関係は、すべての子孫たちに遺伝的に伝えられる堕落性を彼らに植え付けた。子供たちが両親から受け継ぐこの性質は、「遺伝罪」と呼ばれている。ということは、最初の罪が性交であったということは、普遍的な人間の特徴としての罪という視点からすれば必然的であることになる。さらに、原理講論の中には以下のような議論がある:
「人間が堕落する以前の世界において、死ぬということを明確に知っていながら、しかも、それを乗り越えることのできる行動とは、いったい何であったのだろうか。それは、愛以外の何ものでもない。・・・神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い、そして最も聖なるものであったのである。しかし、それにもかかわらず、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。ここにおいて我々は、人間もまた、淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。」(注40)

 この一節において言われている愛の行為は明らかに殺人や盗難ではなく、性行為である。さらに、キリスト教が現代社会の多くの問題を解決できないでいることを論じている最中に、原理講論は以下のように説明している。
「しかし、このような社会的な悲劇は、人間の努力いかんによって、あるいは終わらせることができるかもしれない。けれども、人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。それは、淫乱の弊害である。キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われている」(注41)

(注35)『原理講論』、p.79
(注36)この原理は「神に由来し、被造物に充満する、基本的で活動的で普遍的な法則である」と言われている。(『統一原理解説』、p.29)
(注37)前掲書、p.49
(注38)この運動のその他の神学的著作も同様であるが、原理講論は体系的に発達した神義論を提示していない。道徳的悪が原罪の結果であり、人間の責任であることは明らかだが、非道徳的悪(例えば壊滅的な病気や地震など)に対しては神学的な理由づけがなされていない。
(注39)『統一原理解説』、pp.50-51
(注40)『原理講論』、p.72
(注41)前掲書、p.7

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