実況:キリスト教講座23


キリスト教と日本人(11)

 ところが晩年、内村鑑三はこの「日本の天職」ということに関して段々と悲観的になって失望していきます。それは日本が侵略戦争を行ったからであり、日清戦争の結果に失望し(開戦当時は支持した)、日露戦争には開戦前から反対します。日本がその天職から遠ざかりつつあるということを言いながら、晩年は朝鮮・韓国に対して関心を向けていくようになります。彼は1908年に「幸福なる朝鮮国」という文章を書いていて、隣国の朝鮮は国を失ってもキリスト教信仰が広まっている、そして朝鮮民族はユダヤ民族にそっくりだと言っています。

 内村は、日本の救いは朝鮮から来るのではないかと感じるようになり、「信仰の事については、朝鮮人は全体に日本人以上であるように見える。たぶんわが信仰が朝鮮人の中に根ざして、しかる後に日本に伝わるのであろう」と書いています。それまで内村は「日本の天職」と言っていたのですが、段々と天運が朝鮮の方に移っていくのを感じながら晩年を迎えるわけであります。

 そして内村ですごく面白いのは、再臨運動をやっていることです。「再臨主がやって来る」ということを、ある日突然叫びだすわけです。彼が再臨運動をやるようになったきっかけは、第一に愛娘のルツが1912年に亡くなったことです。これは彼にとって大きな悲しみでした。それが「復活」の信仰へと結びつきます。再臨のあるときに復活するということが希望であったので、このときから再臨信仰が目覚め始めるわけです。

 そして次のきっかけとなったのが、1914年にヨーロッパで第一次世界大戦が起こったことです。第一次世界大戦が内村に対して持った意味というのは、キリスト教国であるイギリス、フランス、ドイツが互いに戦争しているということは、もはや人間の力によっては世界平和は訪れない、何か決定的で直接的な神の介在がない限り、人類の文明はもう救いようがないという、ある種の絶望感を感じたということです。そうすると最終的にはキリストが再臨しない限りは、この世に完全な救いはないということで、再臨信仰に目覚め始めるわけです。

 1918年1月6日に、ホーリネス教会の中田重治、組合教会の木村清松とともに東京・神田のYMCAにおいて、再臨運動の講演会を内村は始めます。それから約1年半くらいにわたって、再臨をずっと叫び続けるわけです。「キリストの再来こそ新約聖書の到る所に高唱する最大真理である」「平和は彼の再来によって始めて実現するのである」というのが彼の中心メッセージでした。このころはいつですか? 1918~19年といえばちょうどお父様が生まれる直前ですよね。ですから、何かを霊的に感じていたんでしょうね。まあ、内村自身は「雲に乗ってやって来る」ということを信じていたみたいですけれども、しかしこのときにこれを叫んだというのは、彼は何か日本における預言者的な使命があったとしか考えられない人であります。

 内村が死んだのは1930年です。その翌年の1931年に満州事変が勃発して、このときから日本は軍国主義への道を歩み始めるようになります そうすると政府としては、キリスト教というものに対して疑念を持つようになります。なぜかと言うと、キリスト教は敵国の宗教であり、「鬼畜米英」の宗教ということになるからです。そして太平洋戦争に向かって行く過程におきまして、段々と宗教に対する締め付けが激しくなっていきます。1939年には、「宗教団体法」という法律が作られます。これは宗教がすべての面において政府の支配の下に入るような、実質的な宗教統制法ですね。

 カトリック教会はバチカンとの関係を絶ち、「日本天主公教教団」として再編されることによって外国の勢力と分断され、すべての宗教が政府にコントロールされるようになります。その中で1941年に「日本基督教団」というものが誕生いたします。これはいまも存在しておりますが、当時34個バラバラに存在していた日本のプロテスタントの諸教派が、政府の圧力によって統合させられて誕生したものです。

 そもそも、外国からいろんな宣教師がやってきて、それぞれ別々の教会を立てたわけです。けれども、政府がキリスト教を統治するために「どうせプロテスタントというのは大同小異なんだから、あんたたち全部一つにまとまりなさい」ということで、圧力を掛けて34個バラバラに存在していたものを一つの教団にしてしまったわけです。

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 ですから、この表のようにもともとあった教団の流れに従って第1部から第11部まで分かれているわけですが、このような教団が寄り集まって一つの宗教団体にまとめさせられて、その代表を立てて政府と折衝をするという形になったわけです。これは信仰の内容からすればとんでもないことです。分かりやすい例えでいえば、政府がいきなり「ハイ、統一教会さん、エホバの証人さん、モルモン教さん。あなた方ははどうせ異端なんだから、全部一つにまとめて、一つの宗教団体つくってください」といって強制的に一つにさせられたらどうですか? だって、信じる内容違うんですよ。それなのに一つの宗教団体になりなさいという話ですから、とんでもない話ですね。でも、これに対して屈服しちゃったんです。生き延びるために。ということで、日本基督教団が設立されたということは、いわばナショナリズムによる宗教統制に、日本のキリスト教会が戦わずに屈服して、白旗を上げてしまったということを意味するわけです。これは、日本基督教団はその誕生からして罪を背負って生まれてきたという意味において、日本基督教団の「原罪」といってよいのではないかと思います。このようにして生まれた団体が、戦後になって統一教会を最も熱心に迫害してきたわけであります。

 日本基督教団は、しばしば日本の戦後のキリスト教徒から、第二次大戦中に歴史を誤導したと批判されます。すなわち権力に順応し、その暴力と残虐行為を宗教的な言葉をもって正当化しようとしたと非難されるわけです。たとえばアジアの教会に『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』という手紙を送っており、それは日本の軍事的拡大を歴史の進歩であると解釈し、神の意志であるとして正当化しているというのであります。

 この手紙の意味が分かりますか? 当時、朝鮮の教会は日本から神社参拝を強要されたりして苦労していたという話を「主の路程」の講義で聞いたことがありますね。そういう教会に対して日本基督教団から手紙を送っているんです。その手紙の内容が、「世界を救済できるのは天皇を中心とした日本の『国体』であり、それを体現したのがわれわれ日本基督教団なので、大東亜共栄圏の建設という目標のために我々を受け入れて言うことを聞いてくださいね」ということを、同じクリスチャンとして訴えているんです。つまり、日本のキリスト教徒は完全に良心を失って、軍国主義の中に巻き込まれて、政府の手先になってしまったということです。ドイツでは激しくヒトラーと闘ったクリスチャンがいました。しかし日本のキリスト教は闘わないで、ほぼ全体が屈服してしまったわけです。

 戦争中は、全ての宗教的グループが思想的な武器として政府に利用されました。全般的に見て、日本のキリスト教は満州事変のときに政府を支持しました。さらに、日本のキリスト教は日本政府による韓国キリスト教へのむごたらしい弾圧に対して、何の抗議もしませんでした。彼らは韓国教会と苦しみを共にすることが出来なかったわけであります。

矢内原忠雄

矢内原忠雄

 若干の例外はいました。美濃ミッションという小さな教団が反発したとか、あるいは矢内原忠雄という人物がいて、この人は内村鑑三の弟子で当時の代表的なクリスチャンの一人です。内村の流れを「無教会主義キリスト教」とか「無教会運動」と言うんですが、その中の人たちは政府の軍国主義を批判したりしています。この矢内原忠雄は東大の教授だったんでありますが、政府に対する批判的な言説が原因で東大教授を辞めさせられています。そのように一部抵抗した人はいましたが、おおむね政府の圧力に屈してしまっていたということになります。ちなみに矢内原忠雄は終戦後に東大教授に復帰し、1951年には東大総長に選出されています。

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