書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』90


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第90回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 今回は第六章「四 統一教会における霊界の実体化」の2回目であり、いわゆる霊感商法のトークを行っていた「霊能師」に関する櫻井氏の記述を分析する。先回述べたように、彼らは「霊能師」といっても霊が見えるとか霊の声が聞こえると言っていたわけではなく、神憑りして託宣を述べていたわけでもなかった。彼らは一般的な運勢や霊界の話をしていただけであり、霊能師というよりは占い師か説教者のような存在であった。そもそもこの「トーク」の目的は、最終的には顧客に統一原理を学ばせて伝道することにあったのだから、彼ら自身が信じている原理の内容とかけ離れたことを語ることはできないのである。ただし、私がこのブログのシリーズ「霊感商法とは何だったのか」で分析したように、彼らのトークの内容は純粋な統一原理の教えではなく、それに日本の土着の宗教概念を混在させたものであり、一種のシンクレティズムであった。

 それでは櫻井氏が解説する「3 霊能師が現出する霊界」(p.282-286)の内容を一つひとつ検証してみよう。「ヨハネトーク」(p.282)というのは日本の一部の信徒たちが使っていた独特な表現であるが、これは洗礼ヨハネが「メシヤの証し人」としての使命を全うせず、イエスに侍り従うことができなかったことが原因で、ユダヤ人たちはイエスを信じることができずに十字架につけて殺してしまったという『原理講論』の教えを援用した考え方である。ここでは「トーカー」をメシヤの位置にたとえ、ゲストを連れてきた「担当者」を洗礼ヨハネの位置にたとえて、両者のあるべき関係が説かれている。これは修練会における講師と進行役の関係であるとか、特定部署における責任者とその補佐役の立場に援用される考え方であり、広い意味では「カイン・アベル」の教えの一種である。したがって、信徒たちにとって「ヨハネトーク」は信仰の実践であり、自らの信念に基づいて行っていたものであったと言える。

 「①転換期トーク」(p.283)は、要するに先祖と自分との因果関係について説いている。『原理講論』は復帰原理の緒論において私たちは「歴史の結実体」であると教えており、堕落論、予定論、復活論においても先祖たちと私たちの関係について述べている。転換期トークはそれを日本人に分かりやすく説明したものにすぎない。

 「②霊肉トーク」「③霊界三層」(p.283-284)は創造原理の第6節と復活論の内容を日本に土着化させ、ゲストの家系の問題と絡めて解説したものであると言える。実際には『原理講論』は私たちの血統的な先祖と私たちの関係をそれほど強調してはおらず、神の摂理を担当する上での代理使命者を通して霊人が再臨復活していくことを述べているのであるが、先祖に関心の強い日本人のために、ここでは先祖と私の血統的な関係が強調されている。色情の罪が地獄で一番苦しいことを強調するのは堕落論の影響であろう。

 「④出家トーク」(p.284)は、青年の伝道コースで言えば「献身」を決意させるのと同じような心情的プロセスを壮年壮婦に通過させるためのトークであると考えられる。統一教会に限らず、信仰の道を行くことを決意するにはそれまでの人生に対する執着を捨てなければならないときがある。これはアブラハムが生まれ故郷を捨てたことや、イスラエル民族がエジプトを脱出したことなど、聖書においても多くの例があるが、仏教の僧侶が出家するというのもこれと同じプロセスである。家庭を持つ壮年壮婦が実際に「献身」や「出家」をすることは困難なので、それに代わる何か象徴的な行為を行うことによって「出発の為の摂理」としようというのが、この「出家トーク」の本質である。

 その次に櫻井氏が「⑤ 環境浄化」として説明する内容は、タイトルと本文の関係が不明瞭であり、いったい何が「環境浄化」なのか意味不明である。恐らく櫻井氏も理解しないままに裁判資料の記述をそのまま転載したのであろう。ここで述べられている内容はいわゆるクロージングであり、具体的には出家と同じような身を見るような思いをして物品購入や献金を決意することである。

 こうして見ると、「霊能師」の語った内容は、統一教会の信者として自らが信じていることをそのまま述べただけであり、見えもしない霊が見えたとか、聞こえもしない霊の声が聞こえたというような「偽り」や「欺罔」に当たることは一切行われていない。彼ら自身の中には「相手を騙している」という意識はまったくなく、むしろ相手の救いのために自らの信念を語っていたにすぎないということになるであろう。要するに彼らは一つの宗教的言説を語っていたにすぎない。それを受け入れるかどうかは、ゲストが自由意思に基づいて判断すればよかったのである。

 続いて櫻井氏は、「4 霊能師達の心情」という興味深い分析を行っている。まず櫻井氏は「統一教会脱会後十数年を経過しても、霊能師役をやっていた元信者達は、基本的なトーク例を立て板に水のごとく語ってくれた。」(p.286)という観察を披歴している。もしトーカーたちにとってこの活動が辛いものであったり、自分の意に反して行ったものであったとすれば、それを思い出すことは苦痛であり、十数年も経てば思い出すのは困難になっているであろう。それを立て板に水のごとく再現できるというのは、トーカーだった時代の彼らの活動が濃密で充実した体験であったことの証左ではないだろうか。彼らは自己の信念に基づき、情熱を込めて活動したに違いない。だからこそそれは鮮明な記憶として残っているのである。

 次に櫻井氏はトーカーをしていた女性たちが霊能師役に徹することができた理由をいくつか挙げ、それを理解することによって「なぜ統一教会信者たちが人を欺せるのかがわかる」(p.286)と分析している。それを列挙すると以下のようになる。
「(1)限定された認識。霊能師はラインの流れ作業に従事しているにすぎない。」「(2)限定された心理。霊能師は感情移入しない。」「(3)限定された責任感。霊能師はメシヤの代理にすぎない。」(p.286-287)

 ゲストに対してトークを行っていた統一教会の信徒たちが、もっぱら自分の果たすべき役割に集中しており、組織全体における自分の位置や立場、ゲストが支払ったお金の行方、ゲストのその後の人生、活動そのものが社会的に見て正しいのかどうか、といったようなことをあまり考えていなかったというのは、おそらく事実であろう。しかしそれは、櫻井氏の言うような「なぜ統一教会信者たちが人を欺せるのか」の説明にはならない。そもそも彼女たちには相手を騙しているという自覚は当時なかったはずであり、むしろ自己の信念に基づいて行動していたのである。

 櫻井氏が指摘するような限定された認識、限定された心理、限定された責任感は、戦場における兵士の心理状態に似ている。末端の兵士は必ずしも作戦の全体像を理解しているわけではなく、自分に与えられた任務を全うすることに集中する。そして自分が戦っている相手や、ときには味方にさえ感情移入せずに、作戦遂行に徹しなければならない。そして戦場で敵を殺したとしてもそれは殺人ではなく、国家の道具としての役割を果たしただけである。「そもそもこの戦争は正義なのか?」というようなことを考えていては、戦場で敵と戦うことはできないのである。

 統一教会の信仰生活は、ある意味で神とサタンの戦いの中に身を投じるということである。最前線で戦う信徒たちが、戦場における兵士と同じような心理状態になったとしても不思議ではない。これは統一教会の信徒に固有のものではなく、目的に徹して激しい闘いを展開している集団の一員となった者はある程度普遍的に陥る心理状態であると言えよう。

 カルヴィニズムにおいては、自分自身を「神の道具」と感じることによって禁欲的な生活を送り、経済活動に没頭することによって巨大な富を生み出した、というのがマックス・ウェーバーの分析である。トーカーをしていた統一教会の信徒たちも、それを自分がやっているというよりは、自分は神の御旨を進めるための道具にすぎないという信仰を持って、禁欲的な活動にひたすら没頭していたと思われる。それは自己を客観的に見つめる広い視野を持った自己認識ではなかったかもしれないが、一つの宗教的自己像として普遍的に存在するものであり、統一教会に固有のものではない。

 私自身は、こうしたトーカーをやった経験はないので、トーカーとはどんな存在なのかを自分の体験に基づいて語ることはできない。しかし、私が韓国のソウルで活動していたころに、同じ教会にいた日本人の教会員の中に、こうしたトーカーをやってかなり高額の開運商品を売っていたという人物がいた。彼は人の家系図を見ると、その人が抱えている問題や先祖の願いが分かると言った。「家系図を解く」という言い方をするのだが、そのやり方は達人の境地に達していて、誰もがまねできるものではなかった。紋切り型に誰にでも同じことを言うわけでもなく、その家系図から浮かび上がる内容をその人に合せて語るのである。彼は家系図を解く自分の能力に対しては確信を持っているようであり、自分が人を騙しているとは微塵も思っていなかった。私から見て、彼は一つの宗教的な境地に到達しているように見え、決して組織の操り人形には見えなかった。しかし、すべてのトーカーが彼のような境地に達していたわけではないだろう。一口にトーカーと言っても個人によって大きな差があり、櫻井氏のように十把一絡げに語ることはできないのである。

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