ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳36


第5章 祝福:準備とマッチング(5)

 構造的には、統一運動の結婚に対するアプローチは、それがアメリカで経た20年の間に起こった変化を反映している。1978年までは、マッチングと祝福の儀式はほぼ同時に行われた。運動が作成した、1975年に韓国ソウルで行われた1800組の祝福式のフィルムの観察に基づき、筆者はマッチングの儀式(それは極めて重要な聖酒式をもって終了する)と、より「公的な」祝福式の間にはわずか一日しかなかったと推定する。しかしながら、これらのカップルは一定の期間は夫と妻として一緒に暮らさなかった。彼らは約3年間聖別していたのであり、そのうちの多くの者が外国において開拓の宣教師として奉仕していた。(注23)1978年までのパターンは、マッチング、祝福式、聖別、そして家庭出発というものだった。一部の運動のリーダーでさえ驚いたことに、文師は1979年に新しいパターンに着手し、そのとき資格のあるメンバーはマッチングを受けたが祝福式を受けなかったのである。これらのカップルはその後は聖別をし、その後に1981年11月に行われると噂されていた式典で祝福されることになっていた。この新しいパターンは、マッチング、聖別(これを「約婚」と呼ぶアメリカのメンバーもいた)、祝福式(その後に絶対的で摂理的な40日間の聖別が続く)、そして家庭出発という順序に従う。メンバーたちは概してこの変化には(彼らの知らない)霊的な意義があると信じていたが、この新しいパターンは古いものと比べて現実的で実際的な利点があるのだと示唆する者もいた。あるリーダーは、現在マッチングされている人数の多さを考慮すれば、聖別または約婚期間は、グループが「うまくいっていない」マッチングを、祝福を受けて家庭を出発してしまう前に解消することを可能にすると指摘した。さらに、古いパターンの下では、カップルが統一運動の中で三年しかいない時点で結婚が祝福され、ある意味で確定してしまう。ここで含意されているのは、結婚が祝福された後に相対関係の片方が運動を離れるかもしれないということだ。新しい順番が意味しているのは、最終的な祝福が与えられる前に、カップルは6年または7年間メンバーでいるだろうということだ。もし相対関係の片方が聖別・約婚期間中に離れたとしたら、マッチングを解消して残っている方を再びマッチングする方が簡単であろう。

 メンバーたちは認めなかったが、運動のメンバーがかなり増加したために、文師(および彼の長老会議)は個々のメンバーに対する個人的な知識があまりなく、彼のマッチング能力に対する確信が弱くなったと仮定するのは合理的であるように思われる。マッチングと祝福の間に聖別期間をもうけることにより、彼は自分自身と運動に対して「誤差の範囲」を提供しているのである。また、1979年からより多くのアメリカ人がマッチングを受けるようになったという事実が示唆しているのは、そのときに出現した新しいパターンが、結婚の前に婚約期間を置くという伝統的なアメリカの慣習に対する運動の適応を反映しているかもしれないということだ。

 順番の変化に加えて、マッチングと祝福の場所も韓国から米国に移動した。1979年以前は、資格のあるアメリカのメンバー(1969年には26名、1970年には18名、1975年には220名)は韓国に行ったが、そのとき以来、儀式はニューヨーク市で行われてきた。この変化は、米国を機能上の中心にしようという過去数年間にわたる統一運動の傾向の一部であると思われる。例えば、その世界宣教本部はこの国にあり、文師の永住場所はニューヨーク州にある。

 誰と誰がマッチングされるかを決定する実際のプロセスも、アメリカの統一教会信者に関しては変化した。1969年と1970年の儀式においては、ほとんどのアメリカのメンバーは彼らの相手を自分で選んだが、それはもちろん文師の許可を得てのことだった。これらの選択においては、お互いに惹かれあうことと、恋愛感情さえもが相当な役割を果たした。1975年以降は、この国に増加した東洋の指導者たち(特に文師)は、韓国と日本の運動のパターンにならい、相手の選択を全面的に文師に委ねるようアメリカ人に奨励した。1975年に祝福を受けた3600名のメンバーは、相手を選ぶ上で三つの選択肢があった。(1)彼らはお互いに選び合って、カップルとして式典に行くことができた。(2)彼らは4~5名の写真を選び、最終的な選択を文師にしてもらうためにそれらを渡すことができた。(3)彼らは運動の伝統であるとみなされている東洋のやり方に従うことができた。(注24)それぞれの選択肢を何名が実行したかについては、入手可能なデータはない。しかし、メンバーらは3番目のアプローチを取るように強く促された。1979年のマッチングでは、大多数が3番目の選択肢を実行し、2番目の選択肢を実行したものがごく僅かだけいた。筆者の感覚では、自分で相手を選んでカップルとして式典に行くこと、すなわち1番目の選択肢は、1979年には不可能であったと思われる。

 自分で相手を選ぶことから東洋のやり方への移行は、文師が米国に永住するようになったことと、その結果としてアメリカのメンバーたちと個人的に関わるようになったことに起因して、米国の統一運動の生活における文師の重要性が増したことによって説明が可能である。彼はまたこの国に韓国の運動の指導者たちを連れてきたが、彼らは運動の中で次第に影響力のある人物となっていった。(注25)

 マッチングに先立つ文師の役割は本質的に二つである。第一に、メンバーに対する準備の講話の中で、彼は結婚に対して徹底して神中心の態度を取るよう彼らに奨励する。「祝福」に関する説教の中で彼は次のように語っている。
「われわれが正当化される道はたった一つしかありません。完全な服従です。『お父様、私には条件もなく、語るべき言葉もありません。どうか御心のままになさってください。私には不満はありません。服従だけを望んでいます。』そのような服従の行為のみが、神の前でわれわれを正当化することができるのであり、統一教会とはそのようなものなのです。祝福は最も貴いものであり、その資格を得るためには皆さんは真理を悟り、真理に生きなければなりません。[#傍線]皆さんにはいかなる男性も女性も見下す権利はないのです。どんな男性も女性も皆さんにはもったいないのです[#傍線終わり]。」(注26)

(注23)1975年の聖別期間は以下のように計算された。もし3年間の終わりに妻が30歳になっていれば、そのカップルは家庭を出発して一緒に住むことができる。もし3年間の終わりに妻が30歳未満であれば、彼女の30歳の誕生日まで聖別は継続する。1980年4月にインタビューを受けた1975年のカップルの中には、つい最近一緒に結婚生活を始めた者が数名いた。
(注24)インタビュー:バベッジ夫妻
(注25)ある元メンバーは、彼が運動を離れた理由の一つは、彼が「教会の韓国化」と呼んだものに付いて行けなかったからであると示唆した。個人的交流:ジョン・バンクス。
(注26)文鮮明「祝福」p.18。下線は著者。

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