書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』13


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第13回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
 先回から櫻井氏による堕落論の批判に入ったが、今回はより細かい部分の検証に入る。初めに、櫻井氏の『原理講論』全般に対する批判に一貫している部分を取り上げてみたい。彼は「統一原理では人間の堕落から話が始められる。この論法は創造原理も同じであり、世界の発生因を神とすることに論証はない。仮説を公理として議論を進めていって、議論に必要な概念(二性性相、四位基台、肉身と霊人など)もまた直感・霊感的に想定可能な準公理として用いながら、全ての議論を展開していくのである」(p.36)と批判してみたり、「この一箇所の典拠だけで次のようにいうのは大胆である」(p.41)とか、「以後は推論だけで堕落の原因・過程を説明していく」「この部分の記述は論理的ではない」(p.42)、「かなり苦しい展開である」(p.43)といった批判を繰り返し、『原理講論』の論証の一つ一つが極めて不十分で論理的な説得力に欠けることを強調している。

 彼は『原理講論』を学術論文かなにかと勘違いしているのではないだろうか? 『原理講論』は宗教的な書物である。宗教的な言説というものは、そもそも論理的な整合性よりも直感的で霊感的な理解を重要視するものが多い。例えば、キリスト教の牧師が「イエスが十字架上で亡くなることにより、あなたの罪が許されました」というとき、そこには万人が納得することができるような論理的整合性は存在しない。それを聞いた人が、聖霊を受けたとか、なにか宗教的体験や実存的理解をしたときに初めてその言葉は真理であると受け止めることができるような内容が、宗教的な言説には多いのである。その言説が説得力を持つかどうかは、その言葉がその人の魂に響いたかどうか、その人の人生に意味を与えるような内容であったか、その人の人生の問題を解決し、救いを感じることができたかによって決まるのであり、論理の緻密性によって決まるのではない。こうした宗教的センスがなければ、『原理講論』の言葉は理解できないのである。

 そもそも『原理講論』が読者として想定していたのは、1950年代から60年代の韓国のクリスチャンたちであり、その多くは根本主義者たちであった。したがって、神が存在することや、人間が堕落していることなどは自明のこととして信じている人々を念頭に置いて書かれているため、そうしたことは論証する必要はなかったのである。むしろ『原理講論』は、根本主義的に「文字通り」に聖書を解釈する傾向と闘い、それに対する反論に多くの議論を割いている。つまり、『原理講論』は基本的に聖書を信じている人々に向かって語りかけており、その中で既存の聖書解釈に挑戦しているのである。

 このような『原理講論』を日本のような非キリスト教的な文化圏で講義しようとするときには、当然そのまま講義することはできない。まず神の存在を信じない人々に対しては存在することを説得しなければならないし、聖書を信じない人に対しては聖書が神の啓示の書であることを納得させなければならない。日本における統一原理の修練会では、こうした傾向に対応するために、日本独特の工夫がなされている。それでも最終的に原理を真理であると受け入れるかどうかは、論理的な緻密性よりは宗教的な直感によるところが大きいのである。

 櫻井氏は堕落論の中心的な主張である「不倫なる性関係としての堕落」という解釈を批判するために、『原理講論』が引用している以下の聖句を取り上げる:「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」(ユダの手紙6-7)

 これをもって『原理講論』は天使の堕落を淫行であると結論しているわけだが、櫻井氏は「筆者にはソドム・ゴモラの話は直接御使達にはかからず、むしろ御使達が自分達の地位を守らなかったことを比喩的に表現しているように思われる」(p.41)と解釈している。

 しかし、ユダ書のこの記事は、外典である『エノク書』からの引用であることが知られている。例えば、日本基督教団出版局版『新約聖書略解』ではこの箇所の注解を、「後期ユダヤ教の著名な物語となっている天使の不倫をさす。地位を守ろうとはせず(エノク書15.7)、そのおるべきところを捨て去った御使(同書12.4、10.4-6、10.11-12、54.3-5)。本来の権威ある身分と高い天のすまいを捨て人間の娘のところにはいり、淫行を犯した天使が……」としている(教文館刊『聖書外典偽典』第四巻エチオピア語エノク書の760ページ参照)。

 また、この部分について『フランシスコ会訳聖書』は、次のように注解している:「本節は、創6:1-4の背景、すなわち、人間の娘をめとって堕落した天使のことを物語る神話に言及したものであろう。この話は、外典エノク10:11~15、12:4、15:4~9、19:1に詳しく述べられている。本節に関するこの解釈は、次節の〈かれらと同じく〉という句からもうなずける。……“不自然な肉欲”は直訳では“異なった肉”。堕落した天使が人間の女を求めたように、ソドムの人々もその町を訪れた二位の天使をおかそうとした(創19:5、なお、外典アセルの遺訓7:1参照)。この堕落した天使たちの罪とソドムの人々の罪は、外典ナフタリの遺訓3:4~5でも関係づけられている」(147ページ)。すなわち、ここで、ユダ書が言わんとしていることは、エノク書にある「人間と天使」というような「不自然な肉欲」と同じように、ソドムの人たちも「人間と天使」(創19:5)というような「不自然な肉欲」に走ったということなのである。

 このように、この聖句の背景を見るとき、御使達の犯した罪がソドム・ゴモラと同じく「淫行」であることは明らかである。しかも、ここで問題とされているのは「天使と人間の女」との関係であることから、これが天使長とエバとの間に犯された「霊的堕落」の罪が成り立つことの、有力な傍証として引用されているのである。

 櫻井氏が『原理講論』の堕落論を批判する第一の根拠は、その解釈が聖書の原義に忠実でないということにある。彼は、「『善悪を知る木の果を食べる』ことの原義は、字義通り善悪を知る木の果を食べたということでしかなく、木の果を食べるというヘブライ語に性行為の意味はない。禁断の木の果を食べるというアレゴリーに秘め事を推測するのは、近現代的な発想だろう」とか、「霊的堕落・肉的堕落が不倫の性関係であるという根拠は、聖書の中に求めようがない」(p.45)と言っている。

 しかし、自分だけが聖書の「原義」を知っていて、それには性的な意味合いはないなどとどうして断言できるのであろうか? 本当のところ、聖書の記事の「原義」などそれを書いた人にしか分からないのであって、数千年の時を経てそれを読む我々はそれを想像することしかできないのである。そして聖書の「原義」を探究した結果、創世記第3章の堕落の物語には性的な意味があると分析する旧約聖書の研究も存在するのである。

 最近の聖書批評学の研究の中には、創世記第3章の著者「ヤハウィスト」の記述は、カナンの多産崇拝に対する反論または警告として書かれたものであると分析するものがある。カナンの多産崇拝は、祭りの時に夫や妻以外の男女と性関係を結ぶことにより、長寿、多産、神との交流を約束する宗教であり、その宗教的シンボルには「蛇」と「木」が含まれていた。それで創世記の著者は、明らかに神殿娼婦による性の儀式を伴うカナンの多産崇拝に対する反論、あるいは警告を意図してこの物語を書いたというのである。また、「善悪を知る木」の木の「知る」という言葉は、ヘブル語(原語の発音は「ヤダ」)においては、しばしば男性が女性と性関係を持つという意味で用いられた。このことについて私は拙著『神学論争と統一原理の世界』で詳しく解説しており、このブログでも読むことができるので、興味のある方は読んでほしい。
http://suotani.com/archives/913

 櫻井氏が『原理講論』の堕落論を批判する第二の根拠は、「キリスト教諸教派では容認されるべくもない原罪論」(p.45)であるということにある。ここで急に櫻井氏は社会学や聖書学の立場を離れ、「キリスト教伝統」を根拠にして批判をしている。しかし櫻井氏自身はキリスト教の正統信仰を持っているわけではない。このように彼のスタンスはコロコロと変わるのである。我々は「原罪淫行説」がキリスト教の正統や主流の教説でないことは百も承知である。文鮮明師は伝統的なキリスト教神学における「正統」の枠の中に自分が納まることに、そもそも関心がなかった。自分が直接聖書を読み、神と対話しながら勝ち取った「新しい啓示」が統一原理であると言っているのであるから、その解釈が既存のキリスト教における「正統」の枠をぶち破ったとしても何の不思議もないのである。統一原理の堕落論は、失楽園の物語に対する新しい創造的な解釈であり、それが真理であるかどうかは、あくまでそれを聞いた一人ひとりが決めることである。なお、原罪淫行説がキリスト教神学の正統になりえなかった理由については、同じく私の『神学論争と統一原理の世界』シリーズで解説しているので、興味のある方は読んでほしい。
http://suotani.com/archives/920

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