書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』89


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第89回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 今回から第六章の「四 統一教会における霊界の実体化」に入る。この節は大きく分けて「四-1 霊能師になった信者」と「四-2 清平の修練会」からなっており、前者が1980年代から始まったいわゆる霊感商法を扱い、後者は1995年以降の韓国の清平における霊的な役事について扱っている。論調はもちろん批判的である。

 この節はビデオセンターに通い始めた時点から、ライフトレーニング、新生トレーニング、実践トレーニング、マイクロでの歩みなどを描写した後に位置付けられているため、新しく伝道された者たちが一通りの教育を終えた後に進路を割り振られる話から始められる。櫻井氏はここで、特殊な事情の故に通教を勧められるもの以外は「献身の道を強く勧められる」(p.274)としたうえで、そのときに統一教会の本部教会員になったことを認定する「教会員証」をもらうと説明する。

 事情が分からない人はこの部分を「そういうものか」と思ってさらっと読み流してしまうかもしれないが、この記述は一種のトリックである。それは、統一教会の本部会員となることと、「献身」することの間には何の因果関係もないからである。たまたま両者の時期が一致したということに過ぎない。櫻井氏が示した「本部教会認定証」には、「あなたは所定の資格審査に合格し、統一教会の本部会員として認められましたのでここに証します」と書かれ、日付に続いて「宗教法人 世界基督教統一神霊協会 会長 久保木修己」と書かれている。これはおそらく「青春を返せ」裁判の原告となった元信者らが裁判に提出した証拠の文面を書き写したものと思われるが、この認定証が示しているのは、記名された人物が信仰上の所属として統一教会に入会したことだけであって、宗教法人との間に雇用関係が発生したとは一切書かれていない。

 宗教法人との間に雇用関係のある人は教会の職員ということになり、本部教会に勤務する職員のほかには、地方の教会において教区長や教会長などを務める「牧会者」と呼ばれる人々、加えて総務部長や会計などがそれに該当する。彼らが任命されるときには必ず辞令が発行される。「青春を返せ」裁判の原告となった元信者らの中で、こうした立場にいたものはいない。彼らは統一教会との間に雇用契約を結んだことはなかった。雇用関係にない者に対して教会が人事異動をするということはあり得ないことである。

 にもかからわず櫻井氏は、「献身後の統一教会員のライフコースとしては、①伝道機動隊で新規の伝道を担当する、②マイクロ隊で訪問販売を担当する、③統一教会系の企業で会社員として働き、給与を献金する、④姓名判断・家系図診断による信者や篤志家獲得に従事する、⑤統一教会の支部や本部で会計・総務を担当する等のコースが用意されている。本人に選択の余地はなく、全ての人事は本部が一括管理する。」(p.257)と、何の証拠もなしに書いている。もし統一教会の本部がこれらの人事を一括して行ったのであれば、辞令や記録が残っているはずであるが、そうしたものは一切なく、ただ信仰上の所属を示した「教会員証」が提出されているだけである。

 信仰を持って宗教団体に所属するということは、個人の内面に関することであり、それによって礼拝の参加や献金などの義務が生じるかもしれないが、それは自発的な意思に基づいて行う行動であり、宗教団体が信徒に何かを命令できるわけではない。まして宗教団体は信徒に給料を払って雇用しているわけではないので、人事や進路の振り分けなどできる立場にはない。櫻井氏の記述においては、こうした内面に関わる宗教的所属の問題と、人事異動や指揮命令という社会的契約に関わる問題がごちゃごちゃにされているのである。もし誰かが原告の元信者らに対して進路の決定や人事異動を行ったことが事実であるとすれば、それがいかなる組織のどのような人物によって行われたのか、そして彼らは宗教法人統一教会とどのような法的関係にあったのかが明らかにされなければならないわけだが、そうしたことを一切しないままに、一方的にすべて統一教会本部がやったことだと主張しているだけなのである。これは「青春を返せ」裁判の原告たちの主張と同じであり、櫻井氏はただ無批判にそれを繰り返しているに過ぎない。

 次に櫻井氏は「霊能師役」をやる人物について述べる。「一般の青年信者が人の好さそうな素朴な感じを漂わせているのに対して、霊能師役をやる女性達はスラッとして目鼻立ちが整い、如才なくサラッと話せるタイプであることが多い。筆者は脱会後数年経った三名の霊能師役をやった信者にインタビューを行ったが、当時は巫女さんの雰囲気すら漂わせていたのではないかと思われた。男性の霊能師もおり、能弁なものか非常に個性的な人達がやっていたという。」(p.275)

 こうした霊能師たちは「トーカー団」に属し、「○○先生」と呼ばれてゲストにトークをする役割を専従的にする信者であるとされる。しかし、櫻井氏によれば「統一教会の霊能師に霊能はない」(p.276)のだという。彼らはいわゆるシャーマン的な素質や操霊の技法を持っているのではなく、上司からその役に指名され、「霊能師としてのいっぱしの口上をゲスト相手に操れるよう訓練された」(p.276)信者たちに過ぎないのだというのだ。これだけを聞いたら一般の人々は、統一教会はありもしない霊能をあるかのように見せかけている詐欺集団であるという印象を受けるであろう。

 しかし、この問題はそれほど単純ではない。まず櫻井氏はそもそも、「霊能」の存在を認めているであろうか? だとすれば彼は、いわゆるシャーマンや霊能者には「霊能」が存在するが、統一教会の「トーカー」には霊能はないと主張していることになる。彼が一般的に「霊能」なるものが存在するというとき、それは「本当に」霊界からのメッセージを受けたり、霊を操っていたりするのであるが、統一教会では「偽って」霊界からのメッセージを語り、霊を操っている「演技」をしているだけであると主張したいのであろうか? だとすれば、霊能が「本当にあるかどうか」を判断する客観的な基準が存在しなければならなくなる。しかし、目に見えない世界に関わることを客観的に判断する基準は実際には存在しないのである。

 通常、宗教学はこうした検証不能な事柄に立ち入ることはしない。例えば出口ナオや中山みきに「本当に」霊能があったかどうかを調べるというようなことは、宗教学のテーマにはならない。検証する方法がないからである。宗教学は、神のお告げを受けたと主張する霊能者や教祖の言動や教えの内容を、客観的に記述することを基本とする。その真偽を判断しようとすれば、宗教学の領域を超えて神学に立ち入ってしまうからである。

 にもかかわらず櫻井氏が「統一教会の霊能師に霊能はない」と言い切るのは、自分は霊能師役をやっていたという元信者が、「あれはマニュアル通りの演技だった」と証言するからであろう。そこに印刷されたトークマニュアルのようなものが証拠として提出されれば、「これは人工的に演出された偽りの霊能に違いない」と思うことだろう。

 それでは「霊能トーク」と呼ばれてるものの内容はどのようなものだったのだろうか? 櫻井氏が277~279ページに掲載している「販売マニュアル」の内容をみると、そこには姓名判断による吉凶の判断、商品である印鑑の説明、値踏み、クロージングの流れが書いてある。要するにこれは占いを根拠として印鑑を販売するためのトークであり、開運商品を販売するためのトークに過ぎない。トークの内容は突き詰めれば「あなたの名前は運勢が悪いから、開運のために印鑑を買いましょう」ということに過ぎず、「私にはあなたの背後霊が見える」とか、「あなたの先祖の霊が苦しんでいる声が聞こえる」とというような霊能力を示す言葉は一切語られていない。このトーカーは占い師であって霊能師ではないのである。このトークを聞いたとしても、顧客はこのトーカーは占いがよく当たる人だとは思ったとしても、何か特別な霊能力がある人だとは思わないであろう。また、霊能師が担当したトーク内容としてメモが紹介されている「Wトーク」と「Mトーク」(p.280~281)の内容も、統一原理の内容を土着化して分かり易く説いたもの過ぎず、具体的に「霊が見える」とか「霊の声が聞こえる」といったことを語っているわけではない。

 霊能師といえば、かつての宜保愛子や近年の江原啓之のような人物、あるいは「イタコ」や「ユタ」のような霊媒、神憑りして託宣を受ける巫女のような存在を連想するかもしれないが、櫻井の示した「トーク」を語る「霊能師役」なる人物は、こうしたことは一切行わず、ただ一般的な運勢や霊界の話をするだけの存在である。その意味では彼らは霊能師というよりは占い師か説教者のような存在であった。もし彼らが見えもしない霊が見えると言い、聞こえもしない霊の声が聞こえると演技していたのであれば、それは相手を欺罔していたと言えるであろう。しかし、彼らが自らが信じる占いによる吉凶を語り、自らが信じる霊界の話をしたのであれば、それは相手を欺罔したことにはならない。彼らは相手を欺罔することを目的として活動していたのではなく、あくまでも自らの信念に基づき、相手の救いのために活動していたのである。櫻井氏の語る「統一教会の霊能師」とは、こうした人々であったのだ。

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