ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳02


序文

1982年10月14日、韓国ソウルにおいて、物議を醸しだしている統一教会の創設者でありトップである文鮮明師は、夫人とともに、彼の信者11674名(5837組)の合同結婚式を行った。この行事から三カ月余り前の7月1日には、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで2074組の合同結婚式が行われ、その式典に私はこの本の著者であるジェームズ・H・グレイス博士および他の友人たちと共に参加した。私の大好きな若者たちの数名がこの日、文師夫妻による式典で結婚した。その式典は私にとって美しくまた感動的であった。

 その結婚式に参加したほとんどの人々が知っていたように、またメディアが正確に報道したように、その式典で結ばれたすべてのカップルは文師によって事前に「マッチング」されている。すなわち、配偶者の選択は文師によって(また集団で)なされ、その男女がお互いに短い相談をするだけで承認されるのである。多くのカップルにとって、そのマッチングが初めての出会いであり、片方が写真だけ提出された状態でマッチングされるような例も少数ある。このマッチングの多くが異なる国家、人種、民族の背景をもつ人々の間でなされ、ときにはマッチングされたときに二人がしゃべれる共通の言語がない場合もある。7月1日に結婚した者たちのマッチングはすべて一度になされたのではない。わずか数日前にマッチングされて結婚した者もいるが、大多数は2・3年、あるいはそれ以上の期間「婚約」していた者たちである。

 グレイス博士による統一教会における結婚の解説の過程で説明されるであろうが、文師夫妻による公開の式典によって結ばれた者たちは、マッチング直後にもう一つの儀式に既に参加している。これは公開されていないもので、この儀式によって彼らは自身の配偶者とほとんど永続的に結び付けられる。したがってある意味で、公開の式典はカップルにとってクライマックスの瞬間であり、「祝福」の複雑な儀式の頂点ではあるけれども、その重要性はその前に行われる「聖酒式」ほどではないのである。このあまり知られていない儀式は事実上、統一教会の唯一の「サクラメント」であるが、その意義は本書の研究において説明されるであろう。

 メディアの数名は、マディソン・スクエア・ガーデンでの行事にコメントして、大きな高校や大学の卒業式に結び付けた。その比較はおそらく軽蔑的な意図でなされたものと思われるが、まったく不適切というわけでもなかった。なぜなら、統一教会における結婚は長い期間の訓練の頂点であり、すべてのメンバーの自己浄化と完成に向けての努力が目的としている、重要なゴールであるからである。しかし、それはすべての真相というわけでもない。なぜなら、この本で後に説明されるように、個々のカップルの結婚はそれ自体が目的ではなく、より高い目標、すなわち世界の救済に至るための手段であると理解されているからである。

 1982年の巨大な式典の前にも、文師は世界最大の集団結婚式を司宰したとギネスブックに記載されていた。1800のカップルが結ばれたソウルにおける1975年の式典である。1982年の行事以降、ギネスブックにおける彼の位置は揺るぎないものに見える。ただし、アレクサンダー大王は紀元前324年にスサで、彼自身、80人の彼の指揮官たち、および1万名の彼の兵士たちをペルシャの女たちと結婚させる集団結婚式を行ったと言われている。王と彼の指揮官たちにとってはこれは本当の結婚式だったが、その他の者たちにとっては既に存在していた非正規の結合を合法化したに過ぎなかった。(注1)

 1975年の儀式は、1961年に文師によって創始されて以来、36組、72組、124組、430組、そして1970年の777組と、徐々にその数を増加させていく一連の結婚式の集大成と言えるものであった。(注2)教会の奥義によれば、これらすべての結婚式は象徴的な意味を持っており、「摂理」と文師の「メシヤ」としての使命の有効性が拡大していく各段階を示しているのだという。

 最近行われた合同結婚式の知識が、新聞や雑誌で読んだものに限られていたり、テレビのスクリーンで見ただけの者は、このような出来事は良くて奇妙に映るか、悪ければ邪悪で恐ろしいものに見えるだけだろう。さらに、メディアは文師の活動に関して決して公正中立な報道をしてきたわけではなく、それどころか、意識的にせよ無意識にせよ、小さいけれども積極的に声を上げる「反カルト運動」(注3)の見解を伝達する役割をしてきた。彼らの主たる目的は、統一教会の評判を落とすことにあった。しかし、グレイス博士のように、あえて物事の深層に迫ろうとする人にとっては、統一教会員の結婚で行われていることは、奇妙で邪悪に見えることをやめ、むしろ驚くほど豊かで独創的な神学の焦点に見えてくるのである。統一教会はその「より高度な教え」を半ば秘密のベールの奥に隠すことを選んできたが、グレイス博士は、私自身が独自の調査でしたのと同様に、教会が真摯な気持ちで学ぼうという意欲のある調査に来る部外者に対してはその門戸を開くということを発見した。

 宗教歴史学者として、私はグレイス博士の著作が出版されたことを嬉しく思う。過去15年間に出現した新宗教に関する本や記事とは異なり、グレイス博士の研究は公正中立であり、教会の内と外、そしてメンバーと元メンバーの両方から得られた資料とインタビューに基いている。グレイス博士は最も厳密な科学的手続きに従う、何年にもわたる綿密な調査の後に執筆した。彼は膨大な量の教会の文献を広範囲にわたって読み、教会のセンターを何日も訪れ、インタビューに数百時間を費やした。彼はセンターを訪問した時には無料で宿泊を提供してもらったけれども、彼なりのやり方で支払うことを主張するほどに几帳面であった。それは事後に彼の公平性に関していかなる疑問も提示されることがないためである。

 さらに、グレイス博士はこの研究に取り組む上で、著しく豊かで広範な教育によって準備されていた。すなわち、神学と社会学の方法論の訓練を両方とも受けていたということである。したがって、彼は統一教会の教義をキリスト教神学との対比において適切に理解し解釈することができた。そのため、宗教的データを説明するために何かほかのものに還元する必要を感じずに済んだ。そして同時に、「宗教者」とは異なる関心を持つ社会学者の言語で語ることもできるのである。しかしながら、この本では神学的、社会学的な専門用語は最小限に抑えられており、グレイス博士の説明の分かりやすさは、背景を問わずあらゆる読者に評価されている。

 グレイス博士の著作は、統一神学全体の研究となることを意図しているのはないし、運動の徹底的な社会学的分析を装うつもりもない。そのような研究にはもっと多くの分量が必要であるか、むしろ数巻の著作になるであろう。しかしそのような作業の場において、グレイス博士の著作は統一教会の生活と思考における中心的な関心事である「性行動」に焦点を当てているという点に最も大きな価値がある。ジェームズ・グレイスが示しているように、統一教会の教義は人類の原罪を不倫な性行為であるとしており、人間関係におけるすべての問題はその罪から生じると見ているのである。したがって、論理的に、アダム、エバ、サタンの根源的な過ちが元に戻され、今度は、人類始祖の過ちに陥ることなく、新しい出発がなされなければならないのである。この基本的な核心思想に、蕩減、「真の父母」としてメシヤとその妻、神の国、個人的および普遍的救済、その他の、統一教会の独特な教義が密接に結びついているのである。したがって、グレイス博士のこの本は、統一教会の生活と思想の中心についての概説となることもできるのである。

 宗教社会学者として、統一教会の思想とその西洋における成功は実に魅力的である。それが実に明らかに、儒教(「家庭主義」と先祖崇拝)、韓国のシャーマニズムと心霊術、そしておそらく大乗仏教のなにか(自己犠牲という菩薩の理想)などの要素と、キリスト教神学と聖書の神話のある傾向を融合しているように、統一教会の教えは東洋と西洋の見事で新しい統合なのである。さらに、それは全世界に根を下ろしているように見える(教会は125カ国以上で宣教を行っていると主張している)。数値的にも財政的にも、教会は1954年に韓国で正式に始まって以来、脅威的な成長を遂げている。すべての財産、企業、関係組織、および社会活動(科学の統一に関する会議、原理研究会、勝共活動、日刊紙、等々)を考慮に入れれば、文鮮明師は既に、具体的で客観的な意味において、歴史上のいかなる宗教指導者が生涯において成し遂げた以上の業績を成し遂げたと言っても過言ではない。この事実は、一部には、例えばブッダやモハメッドの時代には得られなかった、現代世界の条件によるものである。しかし、文師の業績はそれにもかかわらずユニークなものである。我々は現代において、他の主要宗教と同じく、世界を統一する宗教となることを目指す、もう一つの主要宗教の興隆を目撃しているのではないかと推測したくなる。

 グレイス博士は極めて適切であり、一切そのような空想的な推論の逃避にふけったりはしない。彼はまた、自身の調査結果に価値判断を取り込んだりもしない。むしろ、彼は自身の忍耐強い学術的研究の結果を私たちに提示している。私は彼の著作がその価値に相応しく、広く読まれ議論されることを望む。そして、そのことの故に、誤った情報によって生まれ嫌悪感によって助長された、統一教会を覆っている偏見の雲が消散することを望む。

マック・リンスコット・リケッツ

(注1)アリアン「アレキサンダーのキャンペーン」(ニューヨーク:ペンギンブックス、1971)、p. 354 お呼びW・W・ターン
(注2)しかしながら、これらは文師によってこの期間中に行われた結婚式のすべてではない。
(注3)アンソン・シュウプ, Jr、デビッド・G・ブロムリー「新しい自警団」(ビバリーヒルズ:セイジ出版、1980)を参照せよ。

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