書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』81


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第81回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会信者たちの信仰や思考のあり方を分析する目的で、「12 演繹的思考と帰納的思考」という議論を展開し、一般的な人間の思考が帰納的であるのに対して、統一教会の学習方法はすべてを演繹的発想によって説明しようとしている点で「極めて特異な学習過程」(p.252)であると主張している。これに関する彼の説明は、明らかに事実と異なり、偏見に満ちたものになっている。前回は創造原理の理解に関する部分を批判したが、今回は堕落論と復帰摂理に関する部分から検証することにする。
「(2) 堕落論と復帰原理では救済史という目的論により歴史を説明しようとする。」(p.253)これに関しては、櫻井氏がその直後で「創造説を採用する限り、自然にも歴史にも目的が付随するのは当然であり、それ自体問題というわけではない」と認めているように、堕落や救済史という考え方そのものがユダヤ・キリスト教的なものである。それは演繹的な思考ということにはなるだろうが、統一教会だけに見られる「極めて特異な学習過程」ではなく、非常に古くからキリスト教神学の中に存在する歴史解釈だ。歴史に目的があるという主張はすぐれて宗教的なものであり、それを受け入れて自分の信仰として採用するかどうかは受講生の判断にゆだねられているのであり、学問的な論証を求められている内容ではない。しかし、櫻井氏はそこに学問的な論証を要求して批判するのである。

 櫻井氏はここで、受講生にキリスト教的な原罪理解や歴史学による古代や近代の事実理解などの知識、あるいは自然や歴史に目的があることの論証に対する批判的思考能力がないために、原理の結論を受け入れてしまうかのような議論を展開している。「しかし、そこまで考えが及ぶ受講生はほとんどいない」(p.253)という櫻井氏の上から目線の発言には、「統一教会に入信した若者たちは、私のように宗教や歴史に対する広範な学問的知識や、物事を批判的に見る精神が欠如していたために、いい加減な教義に騙されてしまったのだ」という含意が読み取れる。しかし、もとより受講生たちは学問的な探究心を動機として統一原理の歴史論を学んでいたわけではないだろう。もしそうであれば、歴史学を教えている大学の講座を聴きに行けばよいからである。受講生たちは自分の人生の指針になるような世界観を探していたからこそ、ビデオの受講を始めたのであり、それは学問的探究心というよりも自分の人生にとってどんな意味があるのかという、実存的な問いかけが動機となっていたと思われる。要するに櫻井氏の批判は「畑違い」なのである。
「(3) 統一教会の教説は、自然の様子や歴史の出来事を説明領域に加えているために、自然科学・社会科学の認識にも通じるものがあるように統一教会員はもとより受講生も錯覚している。」(p.253)この問題は、宗教と科学の関係という古典的で重要なテーマに関わるものであり、櫻井氏のように「錯覚」などという簡単な言葉で片付けられるものではない。一般に、科学は合理主義に基づくものであり、啓示を無条件に受け入れる宗教とは対立関係にあると理解されることが多い。しかし、宗教と科学、信仰と理性の関係はもっと複雑なものであり、櫻井氏のような二分法で解決できるような問題ではない。
『キリスト教大事典』(教文館)の「科学とキリスト教」の項目は、「近代自然科学は西欧キリスト教社会のなかから生まれた」とした上で、科学の発達の背景にキリスト教信仰があったことを以下のように述べている:「古来、物質や人間が容易に神格化される汎神論的な世界観のもとでは自然科学は生まれてこなかった。キリスト教信仰は天地万有の創造主なる神を示すことによって、自然を究めて、その創造主なる神の御業をあがめる意欲を人々のうちに起した。中世末期の近代科学の創始者たちは、そのような意欲に燃えた人たちで、その多くは聖職者であった」(p.202)。このように、近代自然科学がキリスト教文化圏である西欧から生まれたという歴史的事実から見ても、キリスト教信仰と科学を二分法で分けて、対立関係にあるという見方は浅薄であることが分かる。

 合理主義とキリスト教信仰の関係についても同じことが言える。そもそも、信仰と理性がどのような関係にあるかという問題は、キリスト教神学の世界において古代より現代にいたるまで様々な議論が展開されている複雑な問題である。A.リチャードソンとJ.ボウデンの編著による『キリスト教神学事典』(教文館)の「理性」の項目は、信仰と理性の関係について、以下の4つの立場が存在することを解説している:①対立の関係、対極的な関係、②同一のものとは言わないまでも、調和した関係、③理性はある種の信仰の決断を基礎とするか、または啓示の枠組みのうちでしか機能しない、④理性と信仰は相互に独立したものであって、優劣の比較もできない。以下にこの4つの内容を敷衍する:
①「対立の関係、対極的な関係」にあると説く立場は、信仰と理性は水と油のように分離していると説き、理性を排除し、信仰を重んじる立場である。この代表者は、聖パウロ、テルトリアヌス、ルター、カント、ヒューム、キルケゴールなどである。特に2世紀から3世紀に活躍したテルトリアヌスの「不条理なるがゆえに私は信じる」という言葉は、この立場を代表している。
②「調和した関係」を解く立場は、18世紀合理主義のライプニッツやスピノザ、19世紀のヘーゲルなどに共通した見解で、これは「キリスト教合理主義」と呼ぶことのできる立場である。イギリスの哲学者ジョン・ロックは、1695年に『キリスト教の合理性』という本を著し、「理神論」への道を開いた。「理神論」においては、啓示を認めず、理性のみを信頼し、宗教的真理も理性にかなったものだけを認める立場をとった。このように、キリスト教信仰のなかにも、人間の理性の働きだけによって神について知り得るという立場があり、これに基づいてさまざまな「神の存在証明」が試みられた。こうした立場においては、キリスト教信仰と合理主義は対極どころか完全に一致する関係にある。
③「理性はある種の信仰の決断を基礎とするか、または啓示の枠組みのうちでしか機能しない」と説く立場は、理性を少しは評価しているが、信仰がその基礎となっているときに限るという見解である。すなわち、まず信仰があった上で理性が働くという見解である。この代表者は、アウグスチヌス、カンタベリーのアンセルムス、カール・バルトなどである。特に11世紀から12世紀初頭にかけて活躍したアンセルムスの有名な言葉「理解するために、わたしは信じる」は、この見解を端的に表明している。
④「理性と信仰は相互に独立したものである」との見解は、13世紀に活躍した神学博士トマス・アクィナスの立場であり、神学を「自然神学」と「啓示神学」の2つに分け、前者が理性によって神を知る道であり、後者が信仰によって神を知る道であるとした。すなわち、信仰と理性は各々独立した領域を持ちながらも、お互いに矛盾はせず、かえって役立つという立場が存在するのである。

 このようにキリスト教の伝統の中にも、宗教と科学、信仰と理性の関係に関しては多様な見解があり、櫻井氏が主張するように、その間に通じるものがあるという認識が「錯覚」であるなどと簡単に片づけられる問題ではない。それでは、この問題に対する統一教会の見解はどのようなものだろうか? 『原理講論』は総序において、「宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならない」(『原理講論』三色刷、p.24)と述べているので、少なくとも対立関係にあるとする①の立場でないことは明らかである。かといって啓示を否定するほど合理主義に徹しているわけでもないので②の立場でもない。宗教と科学、信仰と理性の親和性を主張している点で、③と④のどちらかの立場になるのであろうが、そのどちらにより近いかは、個人の個性や信仰観・世界観によって異なるというのが実情であろう。

 櫻井氏は統一教会信徒の思考法は、「全て原理原則、目的に遡って考えなければならず、最終的な結論と事実的事柄の齟齬から論理そのものの妥当性を判断できないために、思考に著しい負荷がかかることになる。」(p.253)と主張しているが、これは信仰に基いた宗教的な思考と、事実に基づいた合理的な思考との間に生じる齟齬や葛藤を意味していると考えられる。だとすれば、それは古代より現代に至るまで多くのキリスト教の信仰者や神学者たちが悩み苦しんできた問題であって、統一教会信徒に固有の葛藤ではない。信仰を持って現実世界に生きるものであれば、程度の差こそあれ誰でも感じることであり、知識の多い者や知的に優れた者であるほどその試練は大きいであろう。

 このように櫻井氏の統一教会に対する批判は、そのまま既存の宗教や伝統宗教にも当てはまる内容が多く、彼の主張するような「極めて特異な」「統一教会特有」の問題とは言えないものである。

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