ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳27


第4章 性的役割分担(4)

 ミス・アボットの言葉は、大多数の未婚の女性メンバーの考え方を代表するものである。
「私は、文字通り女性またはエバが対象で、男性やアダムが主体であるととらえるのはとっても有害だと思うわ。だって、どちらも両方の性質を自身の中に持っているんだから。あなたは自分の個性によって対象になることができるけれども、別の方法では主体になることもできるの。」(注27)

 他の女性は、両性の間のいかなる存在論的な区別をも取り除く解釈をした。
「・・・それ(主体と対象の区別)は、非常に相対的で相互的な関係、・・・授受作用なの。その図が描かれるとき、そこには授受作用があり、主体と対象の間に矢印があるわ。それは常に回転しているものなの。それは固定されたものではなく、二つの間に分割点はないの。それらは常にお互いに循環しているの。だから両方が実際には主体であり、両方が実際には対象なの。それらはお互いに反応し合っているだけなの。でも、ある時点での対象はやがて主体になるの。なぜなら、それらはこのように(彼女は自分の手を互いに回転させる)常に循環しているの。そしてそれは私にとっては、それが始まるとき、それが愛、原理講論の言っている愛なの。」(注28)

 運動における女性のロールモデルとしての文夫人に関しては、女性たちは「教会全体の母親役」としての彼女の役割に対して称賛の意を示したが、概して彼女の生き方を真似しようとは思っていなかった。「・・・彼女は愛情深い人のモデルではあるけれども、ライフタイルに関しては、彼女も私も同じ女性だから同じようなタイプの人生を歩まなければならないとは私は思わないわ。」(注29)これらの女性たちは、文師とは異なり、東洋のやり方を天のやり方と同一視していない。このことは、彼女たちが文夫人について語るとき、彼女の韓国的性質(例えば、受動性と家庭第一主義)と彼女のより精神的で普遍的な性質(例えば、人格や愛の強さや祈りの生活)を慎重に区別していることからも明らかであった。

 既婚のメンバーの性的役割分担に関する見解は、一つの顕著な例外はあったが、夫と妻の両方が相互関係、役割の交換、および彼らの関係性において愛がカギを握る力学であることを語った点において、独身女性の考え方に非常に近かった。彼は原理講論における主体・対象の図式を、「深い内的な意味」があるとみなしていたが、結婚における性的役割分担や社会を組織する上での基礎として「外面化」することに対しては反対であった。実際、私に伝えられた全般的な意味は、この図式が意味しているのは、まさにこれらのカップルが結婚において共に経験したことを示しているのだと言いたいということだった。彼らにとって重要なのは、夫や妻がどうあるべきかや何をすべきかではなく、いかにして互いに有効で調和的に関わるかということだったのである。性的役割分担の問題そのものは、関係をうまくやっていくうえでは明らかに二次的なものであり、それと同時に、彼らの神に対する信仰を反映し、彼らの個人的なニーズや個性を尊重していたのである。

 性的役割分担に関する見解の多様性は、二つの非常に異なるカップルをさらに詳しく調べることによって一番うまく説明される。最初のカップルであるランサム夫妻は、統一運動の中で「国際結婚」と呼ばれるものをしており、女性は極東の出身で男性はアングロサクソンである。ランサム夫人は、彼女の背景と気質に照らせば、彼女が夫を支配したり、夫とあらゆる点で平等な結婚では、自分は幸せを感じないだろうと説明した。一方で、彼女が統一運動に入会する以前に結婚しなかった理由として挙げたのは、彼女の国では男性が非常に強くて女性は家庭内奴隷に過ぎないからというものだった。彼女は全生涯を誰かの僕として過ごしたくはなかったし、インタビューをしている間は、彼女の夫ほど積極的ではなかったものの、まったく卑屈な様子はなかった。ランサム氏は、男性はリードしなければならないが、「東洋の文化のように支配的なやり方ではだめだ」と言った。彼によれば理想的には、「主体と対象が調和的な相互作用をなし、最終的には彼らは一体化してより高次の存在となる。その相互作用はダンスのときに起きることに似ている。初めにパートナーの一人がリードし、次にもう一人がリードするというように、ダンサーは常に位置を変え続ける。」(注30)

 我々の目的からすれば、ランサム夫人は東洋文化の産物でありながら、女性の従属的な役割を拒否したことに留意するのは重要である。さらに、彼女の夫の態度は、伝統的なアングロサクソンの男性に対して予想されるよりも、はるかに柔軟であった。ランサム氏はもちろん結婚において主体の役割を果たすのであるが、それを彼と妻の間の独特な人格的関係を反映させるような方法で適応させたのである。

 エンゲル夫妻は統一教会のカップルだが、彼らの性的役割分担に対するアプローチはランサム夫妻のものとはまったく似ていない。彼らは二人とも13年間にわたって統一運動に所属している。エンゲル氏は組織の中間管理職であり、エンゲル夫人はグループの初代家庭局長であったが、現在は老人ホームのソーシャルワーカーとして外部で働いている。彼女が世俗世界でこの位置に着いたのは、彼女と夫が二人の子供のために経済的な安定性を考慮したためである。エンゲル夫人は、およそ言葉に詰まるということのない、たくましくて社交的な人物である。彼女は、「対象」の役割により満足しているように見える夫の影を簡単に薄くしてしまう。彼は、家族にとって重要な決定をするときには、彼よりも妻の方がより大きな影響力を持つことを認めたが、これは彼にとって問題ではないという。彼も妻も、原理講論における主体・対象の枠組みは、人間関係に対する数多くの異なるアプローチを考慮に入れることができるくらいに一般的なものであり、彼らの結婚においては規定された性的役割分担よりも、愛と互いに対する尊敬の念の方がより重要であると示唆した。(注31)

 結婚における性的役割分担に対するより「オープン」なアプローチを志向する上述の「顕著な例外」は既婚の神学生で、彼の妻は一時的にヨーロッパに住んでいた。この研究のためにインタビューを受けた40名のメンバーのうち、性的役割分担に関する立場が頑固な教条主義であると分類することができたのは、キーン氏ただ一人だけであった。
「性的役割分担は明らかにある。男と女には違いがある。そして役割もそれから自然に形成されるものだ・・・。だから、ほら、私は子供に授乳したりしない。私の妻がそれをするだろう? そして彼女が家にいてそれをしている間、私は外に出て新聞配達をしたり、ニューズ・ワールドで働いたり、神学校に行ったり、他のことをしたりする。だから、性別に基づく基本的な性質の結果としての明らかな役割というものがあるのだ。」(注32)

 彼によれば、生物学が無条件に運命を決定するようだ。すべての女性は理想的には家に属している。今日の運動において女性がリーダーの位置についているのは、一時的な手段に過ぎず、摂理歴史のこの決定的瞬間における方便に過ぎない。ひとたび天国が地上に確立されたら、男性だけが支配するのであろう。(注33)

 キーン氏を除いて、ランサム氏とエンゲル氏は、インタビューを受けた8つのカップルの中では、二つの相異なる視点を代表している。前者はやや伝統的な夫婦関係を反映しており、後者は配偶者の性格やニーズに強く基づくアプローチである。その他の6つのカップルはこれらの両極の間のどこかに位置している。これらのインタビューに基づき、筆者は統一運動の結婚における性的役割分担のパターンは、おそらく米国におけるカップルのランダム・サンプルから得られるものと大差ないのでははないかと思った。独身の女性と既婚のカップルから得られた情報のより包括的な社会学的分析は、この章の最後に示されるであろう。

(注27)インタビュー:アボット女史
(注28)インタビュー:マリー女史
(注29)インタビュー:アボット女史
(注30)インタビュー:ランサム夫妻
(注31)インタビュー:エンゲル夫妻、インタビュー:エンゲル氏、個人的交流:エンゲル氏
(注32)インタビュー:キーン氏
(注33)キーン氏は、私が会った中でニュースメディアや反カルトの文献によって描かれたステレオタイプを完璧に表している唯一のムーニであった。他の問題に関する彼の考え方も同様に頑固であり、おそらくこれは根本主義のキリスト教徒としての背景が表れたものと思われる。

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