書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』79


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第79回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、「11 実践トレーニング」(p.249-251)の内容について説明している。彼によれば、実践トレーニングの講義内容は以下の通りである「一 公式七年路程、二 万物復帰・伝道(実践)、三 展示会思想(実践)、四 祝福の意義と価値、五 反対派」(p.249)。

 このうち、一と二と四は統一教会の教義の説明であると考えられ、教会で用いられている用語と一致している。「展示会思想」は統一教会の教義には存在しない言葉だが、櫻井氏によると「信者の家族・親族・友人を宝飾品・着物・絵画等の展示会に誘う等、販売促進員となることだ」(p.249)という。これは要するに営業活動なのであるが、当時は連絡協議会の信徒たちがこうした商品を扱う会社を設立して販売を行っていたため、現場の信徒たちがその営業活動に宗教的な意義付けをして教育を行っていたと考えられる。「反対派」というのは、拉致監禁を伴う強制改宗を行う「反対牧師」と呼ばれる人々が実際に存在するため、それに対する対策の講義として行ったものであろう。こうした迫害から信徒を守るための教育を行うことは当然である。

 櫻井氏は、「実践トレーニングの講義題目が、統一教会員のなすべき全ての信仰実践を示している。」(p.249)と述べている。それでは、ここまで来るのに通常どのくらいの時間がかかるのであろうか? 櫻井氏の記述によれば、勧誘されてから統一教会の信者になることを決意するまでの期間は4ヶ月が突出して多く、それはフォーデーズセミナーを終えた時点であるという。(p.211)その後に一ヶ月の新生トレーニングが続き(p.245)、その後さらに数ヶ月の実践トレーニングが続く(p.249)ことを考慮すると、受講生が統一教会とはどんなところであり、どのような信仰実践があるのかを知るまでにかかる時間は、出会ってから半年ほどということになる。しかも、新生トレーニングと実践トレーニングにおいては、いま自分が学んでいるのは統一教会の教義であるということを知った上で学んでいるのである。櫻井氏は「正体を隠した伝道」を強調するが、多くの受講生は出会って4ヶ月で自分の学んでいるものが何であるかを知り、半年でそこで行われている活動の中身を知るようになるのである。つまり、その時点で自分が聞いてきた宗教的な世界観や実践を受け入れるか否かを判断するための、基本的な情報をすべて与えられるわけだ。人生の中において、これは決して後戻りできないほどに長すぎる時間ではないし、実際に「いい勉強だったが自分には合わない」と言って、トレーニング終了後に関係を絶ってしまう受講生も多数いるのである。

 以前に一度紹介したが、東京における「違法伝道訴訟」に原告側が提出した証拠(甲第57号証)には「4DAYS現状調査」という、フォーデーズ参加者の追跡調査を行った表がある。これは連絡協議会傘下の東東京ブロックの青年支部が行っていた伝道活動に関する資料であるが、1988年の11月から1989年の3月までのフォーデーズ新規参加者数が438名となっている。そのうち新生トレーニングに進んだのが288名で、実践トレーニングに進んだのが165名、その中で「フリーになる」、すなわち仕事を辞めて連絡協議会で専従的に活動するようになった者(いわゆる「献身者」)は18人となっている。この数は実践トレーニング参加者の11%に過ぎない。櫻井氏は「正体を隠した伝道」と巧みな誘導によって受講生は統一教会の命ずるがままに行動するしかない状態に追い込まれていくかのような記述をしているが、勧誘する側の目的が「献身者」を生み出すことだったとすれば、実際には大多数の人が実践トレーニングを終えた時点で、それに対して「ノー」と言える判断力を持っていたことをデータは示している。ここでも我々が認識するのは個人の自由意思の存在であり、受講生たちは教えられた内容に対して十分な抵抗力を持っていたことが分かる。その中で信仰の道を行くことを選んだ人は、圧力の犠牲者ではなく、自らの自由意思によって主体的な決断したということである。

 さて、櫻井氏は「一連のトレーニングにおいて、教義の学習を終えてから最後に実践内容を語るというのは筋が通ってるように見える。」(p.250)ということを認めておきながら、それを語学の学習になぞらえて、「学び始めるものが何を学ぶことになるのかを最初に教えられていない」と批判した上で、その言語がどこで使用され、話者はどのような文化・歴史・国家を持った人かを知らないまま、ただひたすら文法の学習を泊りがけで行い、特定言語を母語に優先して用いるという選択を最終的に迫られるという経験をすることになるという、荒唐無稽な例え話を展開している。そもそも、何語であるか分からない言語の文法をひたすら学び続け、それを母語に優先して用いるようになるというような状況は実際に起こりえないことなので、例え話として意味をなさないであろう。

 しかし、あえて櫻井氏の強引な例え話に合わせてストーリーを作ればこういうことになるだろう。ある人が、何語か分からない意味不明の言語を用いて会話している人々に出会った。その人は日本語も喋れたが、そのグループの人だけが理解する言語で会話しているときの様子はとても楽しそうで生き生きとして見えたので、よく分からないがその言語を学んでみようという気持ちになった。言語の習得は一筋縄ではいかず、泊りがけの合宿に参加することでようやく身に付いてきた。やがて少しづつ自分もその言語を使えるようになってくると、その言語でしゃべることが嬉しくなり、その言語でしか体験できない仲間意識や共同体意識というものが芽生えてきた。そしてある日、その言語は自分たちが理想とするある外国の言葉で、その国の国民となるためには言語の習得が義務付けられていることを初めて明かされる。そして、あなたも母国を捨ててその国に移住してみないかと誘われる。すると、その言語を通して得られた仲間意識や共同体意識に強烈に魅了された一部の者は移住を決意したが、残りの者はやはり日本での生活に未練があり、見たこともない外国に行くのは不安だということで言語の学習を辞めてしまった。ここで「言語」を統一原理に、「理想とする外国」を天国に置き換えれば、伝道されるということがどんなことかを、一つの例えとして表現していることになるであろう。この例えが荒唐無稽だと思った人がいたとすれば、それは櫻井氏の最初の例えに無理があったということだ。

 さすがにこの例えは飛躍があると思ったのか、櫻井氏は「言語と宗教では比較の次元が異なるかもしれないということであれば」(p.250)という言い訳をしたうえで、異なる宗教間の対比へと話を持っていく。彼は特定宗教の中身を知る方法として、①出版物による教説の理解と、②指導者や信者に宗教活動や信仰生活の実態を尋ねる、という二つの方法をあげ、既成宗教においては①と②の両方とも誰でも可能だが、統一教会においては一般市民は①も②もほとんど機会がないと言っている。これは単に、仏教や神道などの日本のメジャーな宗教と、比較的小規模な新宗教である統一教会では、一般市民が持っている情報量が異なると言っているに過ぎない。そしてその結論として、「要するに、宗教実践に関わる何の情報も持たず、与えられることもなく、ひたすら教説の学習を繰り返されてきたのが統一教会の入信者達である。」(p.251)というような無理な結論を導き出している。確かに統一教会の教義や信仰生活の実態は、多くの日本国民に知られていないであろう。しかし、そのこと自体が悪いのではない。知らないからこそ、興味や関心を持った人はそれを学ぶのである。

 櫻井氏の論法は、特定宗教に対する前知識のない人は、その宗教について正しい判断ができないという結論に持っていこうとしているが、人は必ずしも前知識や冷静で客観的な比較検討によって宗教を選択するわけではない。たまたま出会った見ず知らずの人と恋に落ちることがあるように、前知識のない宗教にいきなり出会って、それを一生信じるようになる人もいるのである。そもそも世にあるすべての宗教の教義や実践内容を知ることはできない以上、人はたとえたまたま出会ったとしても、自分に合っていると信じられる宗教を選択するのである。そしてそのときに判断材料として、まずはその特定宗教の教説を知的に一生懸命学ぶことは至極まっとうな方法である。

 ひたすら教説の学習を繰り返した後で初めて実践内容を教えられるという櫻井氏の批判についても、「教義が先か? 実践が先か?」という選択の問題であり、科学の教育における「座学が先か? 実験が先か?」と似たようなテーマである。人にはいろいろなタイプがあり、理論面から関心をもって実践に移っていく人もいれば、体験を重視して理論は後からついてくるという人もいる。宗教団体の個性も同様にさまざまで、まずは教義を理解することを重要視する主知主義的な宗教も存在すれば、「考えるよりも先に体で感じなさい」という体験重視型の宗教も存在する。櫻井氏の調査対象となった元信者たちは、前者の体験をした者が多かったというだけのことであろう。これが教会内で生まれ育った二世信者になれば、事情はまったく異なる。彼らにとって統一教会の信仰は生まれたときから生活の一部であり、教説について本格的に学び始めるのは中高生程度まで成長した後である。実際には、ひたすら教説を叩きこまれなければ統一教会の信徒になれないというわけでもないのである。

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