書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』61


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第61回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は「献身した信者」の仕事内容として、典型的な移動経路を「ある献身者(女性)の配属先と業務」というタイトルで掲載している。(p.212-13)経歴を見る限りでは、この元信者は筆者とほぼ同世代であり、6500双の韓日祝福を受けた女性信者であったと思われる。櫻井氏は彼女の脱会の経緯に関して、以下のような興味深い記述をしている。
「本データにおいて自然脱会は一例のみだから、信仰生活の活動を継続している途中でどのようにして脱会したのかが問題となろう。結論的に言えば、家族との話し合いによって統一教会の活動実態を知り、脱会した。」「子供が祝福に参加するべく渡韓のためのパスポート申請が必要になり、戸籍抄本を求めに来たり、あるいは両親の理解を得ようと帰省したりした折に、家族が徹底した話し合いの機会を元信者に求め、彼らは応じた。」「元信者達が受けた脱会カウンセリングの中身、及びその方法に関わる議論は別著で既に論じた(櫻井 二〇〇六a)。ここれは統一教会の信仰生活が突然断念されるという形で終結したことのみを確認しておきたい。」(いずれもp.213)

ここで櫻井氏が「別著」と表現したのは、このブログの第52回で紹介した、『「カルト」を問い直す』(2006年、中公新書ラクレ)である。統一教会を離れた元信者で、自身の拉致監禁体験をブログでつづった故・宿谷麻子さんが、この著作における櫻井氏の記述を批判していたことは既に紹介した。そこで、この「別著」の第3章「宗教をやめない自由vs.やめさせる自由――脱会カウンセリングへの告発」の内容をしばらく検証することを通して、身体の拘束を伴う説得による「脱会」の問題に関して櫻井氏がどのようの考えているのかを分析することにする。

櫻井氏は、統一教会信者が自分を監禁して脱会説得を行った両親や牧師を訴えた民事訴訟に関して基本的な事実を抑えており、少なくとも裁判所が違法性ありと認めた脱会説得のケースがあることを承知している。しかし一方で、「拉致監禁ではなく保護説得だ」という両親の側の主張をそれに対置させ、「本章では、どちらが正しいというような判断はしない。」(「『カルト』を問い直す」p.81)と述べ、あたかも中立的で客観的な立場であるかのように装っている。そして拉致監禁の事実を報告したジャーナリストの室生忠氏や米本和広氏の報告に対しては終始批判的に取り上げ、自分は「室生が原告の心情や立場を縷々代弁したような形で、被告側の事情を代弁することはしない。」(同書p.92)とまで言っている。しかし、実際には櫻井氏の記述は明らかに「宗教をやめさせる側」である両親に感情移入し、その心情や立場を縷々代弁するような内容になっている。

櫻井氏は、妻を拉致監禁されたアメリカ人の統一教会信者であるクリス・アントール氏(彼は筆者の知人であり、監禁の被害者である夫人にも会ったことがある)が主張する「信教の自由」に対して、日本における統一教会の違法伝道と霊感商法の問題によってこれを相殺しようとしている。そして、クリスは好青年だと持ち上げておきながら、「彼も教団に翻弄される信者の一人なのだろう」(同書p.98)という、いかにも上から目線の偏見に満ちたコメントをしているのである。

彼の脱会カウンセリングに対する最も率直なコメントは以下のようなものである。
「脱会カウンセリングの外形的側面(脱会させるための手段)に注目すれば、家族とはいえ、信者を拘束していることに間違いない。ただし、その目的は、原告に信者をやめてもらうことだけであり、その説得によって被告となった家族が金銭的報酬を得たり、原告に何らかの奉仕や返礼を期待したりするわけではない。原告に人並みの幸せを得てほしいと望んでいるに過ぎない。それは原告の宗教に対する無理解であると言えばその通りである。」(同書p.101)

櫻井氏は、動機が金銭的報酬、奉仕、返礼に対する期待でなければ、「信者をやめてもらいたい」という願望を成就するために、親が子供の身体を拘束して説得することが正当化されるとでも言いたいのであろうか? それは単なる「宗教に対する無理解」を超えており、信教の自由に対する侵害であることを、敢えて櫻井氏は認めようとしない。

さらに櫻井氏は、統一教会信者が親や牧師を訴えた民事訴訟の事例は、最終的に脱会しないという選択をした信者の事例なので、「この結果から言えば、『強制棄教』させられたものはいない。」(同書p.100)という奇妙な論理を展開している。これは言葉の遊びにすぎない。結果的に信仰を棄てようと保とうと、身体を拘束された状態で「棄教を強要された」という事実に変わりはなく、それ自体が違法であることにも変わりはない。

しかし櫻井氏の論法によれば、信仰を棄てた人々は「話し合い」の結果として「脱会」の選択を自己決定したことになり、信仰を棄てなかった人は結局脱会しなかったのだから「強制棄教」は成り立たないことになってしまう。これはいずれの場合にも「強制棄教」という概念を成り立たなくするための詭弁にすぎない。問題は結果として信仰を棄てたか保ったかではなく、説得のための手段が身体の拘束を伴う違法なものであるという事実であることに、櫻井氏は敢えて目をつぶろうとしているのである。ある人を拉致監禁して脱会説得を開始する時点では、その人が脱会するかどうかは分からない。その同じ行為が、首尾よく脱会すれば「自己決定」であり合法であり、逃げ出して親を訴えれば「棄教の強要」であり違法であるとすれば、同じ行為の法的評価が180度異なることになってしまう。これは反対派をして、「逃げ出して訴えられると裁判で負けてしまうので、信仰を棄てるまで監禁し続けなければならない。脱会してしまえば監禁も合法だ」という発想をさせる、危険な論理である。

櫻井氏は、「強制棄教」によって教会をやめた元信者たちが、なぜ家族を「拉致監禁」「強制棄教」の容疑で訴えないのかという無理な注文をして、そんなものは存在しないのだと強弁する。しかし、彼らは家族によって説得され、最終的には屈服した者たちなのだから、その家族を訴えるなどということは力関係から言ってもあり得ない。さらに統一教会が主張する拉致監禁のケースが数千件に及ぶわりには、家族や牧師を告発したケースが少なすぎることを挙げて、「事例が少なすぎるのではないか」(同書p.101)と難癖をつける。しかし、自分の両親を訴えるということは、勇気のいることであり、裁判となればお金も時間も労力もかかるうえに、それによって個人的に得るものは非常に少ない。私は両親や牧師を訴えた拉致監禁の被害者たちに直接会って話した経験を多く持つが、彼らが多くの時間と労力を投入して、傷付きながらも裁判で戦ったその動機は、自分と同じような体験をする人がこれ以上増えないようにという「公的精神」に基づく義憤であった。自分のことだけを考えていたら、敢えて裁判を起こすことはなかったであろう。拉致監禁のトラウマで傷付いて精神的に立ち上がれないような人や、そんなことは忘れてしまいたいと思うような人は、そもそも裁判を起こさないのである。櫻井氏の主張は、監禁という心の傷を残す体験をした人に対するデリカシーがあまりにもなさすぎる。

櫻井氏は、親族に身体を拘束されて棄教の説得を受けるという全く同じ体験をしたにもかかわらず、それに対して真逆の評価した2人の著作を取り上げている。一方は脱会して統一教会を告発した南哲史氏の著作『マインド・コントロールされていた私――統一協会脱会者の手記』(1996年、日本基督教団出版社)であり、もう一方は信仰を貫いて監禁から脱出した小出浩久氏の著作『人さらいからの脱出――違法監禁に二年間耐えぬいた医師の証言』(1996年、光言社)である。櫻井氏は、この二つの著作のどちらを支持するのかという問いに対して、「筆者は統一教会に批判的な立場に立つ以上、南の主張を最終的には支持する」(p.109)と述べ、小出氏の体験に対しては、一応リアルなものとして「否定することはできない」という消極的な態度である。

最終的に櫻井氏はこの問題を、「一般読者にとって、どちらの議論に正当性を認めるかは、畢竟、統一教会という教団への評価如何によるのではないか。研究者、ジャーナリストといっても、この問題に対して何ら特権的地位から客観的評価を下せるものではない。」(同書p.114)という不可知論・相対論に棚上げして逃げている。そして自分は統一教会に対して否定的な評価をしているから、「拉致監禁」や「強制棄教」を認めない立場なのだと開き直る。挙句の果てには、室生氏や米本氏が提示した「信教の自由」や人権の概念を抽象論として切って捨てる始末である。これは極論すれば、自分が否定的な評価をした団体の信者に対しては、人権や信教の自由が侵害されているという主張を、その否定的な評価の故に否認することができると言っているに等しい。人権や信教の自由は本来普遍的な概念であり、所属している団体の評判が善かろうが悪かろうが、すべての人が享受すべき基本的な権利であることを、櫻井氏は事実上否定していることになる。

こうした複雑な議論を本書『統一教会』の中で展開すれば、統一教会信者が身体的拘束を受けて脱会説得されている事実を読者に知らせなければならない。それは統一教会を利することになるばかりか、統一教会を糾弾する論調が鈍る恐れがあるため、櫻井氏はあえて本書の中では詳細を避け、「家族との話し合い」とか「信仰生活が突然断念されるという形で終結したことのみを確認しておきたい」といったような抽象的な表現で済ませているのである。

しかし、このシリーズの第53回で明らかにしたように、櫻井氏の調査対象の中には、自らが文字通りの「監禁」を伴う脱会説得によって教会を離れたことを裁判の場ではっきりと認めている者が最低でも5名は含まれているのである。そして、櫻井氏の調査対象となった札幌「青春を返せ」裁判の原告に限って言えば、全体の86%が物理的な拘束を受けて脱会したことを証言の中で認めており、軟禁も含めれば全員が何らかの意味で拘束された状態で脱会を決意した者たちなのである。こうした都合の悪い事実には蓋をして、脱会の経緯に関しては抽象論で済ませ、「家族との話し合い」で済ませるのが櫻井氏の手法である。「研究者、ジャーナリストといっても、この問題に対して何ら特権的地位から客観的評価を下せるものではない」というのが櫻井氏の主張なので、批判的な立場で論じている自分の立ち位置としては、「これでいいのだ!」というわけだ。

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